120 手塚治虫の夢、西崎義展の野心①
今日はこいつ、西崎義展を取り上げます。私もフォローし、スキも何度となく付けさせていただき、面白く読ませていただいているnoteでも取り挙げていました。私のnoteでもことあるごとに言及してましたが、正面から論ずることはなかった『宇宙戦艦ヤマト』、放送中のアニメにかこつけて避け続けるのは限界に来たようです。
しかしなぜヤマトのビジュアルではなくそのプロデューサーの写真をタイトル画像にしたのか。それはアニメブームの立役者が結局この人間だったと確認したかったから。簡単に言えば彼がいたから松本零士、松崎健一、スタジオぬえ等々、様々なクリエーターが結集して最初のアニメブーム、ヤマトブームが起こったのです。
しかしです。ヤマトの最初のテレビシリーズは1974年10月から。そして日本最初の毎週30分のテレビアニメシリーズ、モノクロの『鉄腕アトム』放送開始は1963年1月1日、ざっと12年の時間がある。その間モノクロからカラーに代わり、アニメーションの技術は発展し表現も多様になり様々な物語が試されていったけど、アニメ「ブーム」にはならなかったのです。
それは多分虫プロのアトムがアニメ制作での同業者の東映動画のクリエーターからは邪道とみられ、スポンサーからは金のなる木ぐらいしか受け止められず、個々の作品でブームは起こせても、アニメと言う表現の地位向上には繋がらなかったのです。
なぜか。スポンサーと視聴者は『鉄腕アトム』から、その未来志向/思考のドラマ性より、原作付きと言う安定感を選び取った結果と思うのです。また富野由悠季の証言から、虫プロ出身者が同業者からあまり評価されていなかった事情もある。手塚は最初のアニメ『鉄腕アトム』から、「アニメーションじゃない、アニメです」と言っていたようだけど、結局は「テレビまんが」という世間、日本社会の認識に敗北し、無視されたようなのです。
時は劇画ブーム、東京ムービーの『巨人の星』、虫プロが手掛けた『あしたのジョー』、『タイガーマスク』は東映動画。またギャグマンガも流行で、『オバケのQ太郎』に『天才バカボン』、さらにバカボンの赤塚原作のは『ひみつのアッコちゃん』は魔法少女アニメの元祖でもある。
つまり「ヤマト発進」の1974年10月まで、日本のアニメは今に続く様々なジャンルに手を出し、現在名を成したクリエーターに活躍の場を与えていたのだが、それらを糾合してアニメと言う新たな価値を見つけさせるには、やはり西崎義展という大人を日本のアニメ業界は必要としたと思うのです。(大塩高志)
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