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「みかん貰いに来ました」−男子発言ノート54

そのひと言で、もうじゅうぶんだった。


とある公演にスタッフとして参加したときのこと。

外部からお呼ばれしたスタッフは基本孤独だ。
そのうえ、本番での失敗は許されまい、と日々張り詰めた気持ちがつづく。

そんななか、気を使って声を掛けてくれたり、優しく接してくれるスタッフさんや役者さんには、“初めて見たものを親鳥だと思うひよこ”のようにどうしてもなついてしまいがちになる。

細やかな仕事ぶりでリスペクトしていたとある演出助手さんも、そのおひとりだった。

→建て込まれた客席の下に物を落としてしまった私が絶望していると、演助氏はするりとくぐり抜け降りていって、拾いあげてくれた。
……優しい。

→こんな末端スタッフでも本番が近づいて緊張からドス重いため息をついていると、「何か出ましたね今」と突っ込んでくれた。
……優しい!

→あるスタッフさんに嫌われた気がしてぐったりしていた稽古終わりには、呼び止めて私のスタッフワーク周りの様子を気にかけてくれた。しかも、横に座ってしっかりと腰を落ち着けて聞いてくれた。
……優しい!!

こうして、短い稽古期間のあいだに私はすっかり心のなかで演助氏のひよこになり、慕い、心の支えとし……いつしか淡い恋心さえ抱くようになっていた。
これから始まる決して短くはないハードな本番期間中も、彼がいてくれれば生きられる。そう思えた。

それなのに──そう心強く思っていた矢先、
「今日で◯◯さん(演助氏)は最後です!」
と制作さんがアナウンスした。本番当日の全体ミーティングで。

ぴよよ!?

演助氏がいてくれればこそ、この現場を乗り越えられると思っていたのに……!!!

ぴえん、ってか、ぴよん。

なんでも、本番を迎えてしまえばそれほどやれる役割もなかろう、ということなのか、もう稽古がスタートしている次の現場へ行っちゃうらしい。元々その予定だったらしい。

知らんかったー! 大誤算!! 明日からどうしろっていうの……。

悲しみに打ちひしがれた無力なひよこにできることは、その日一日、こっそりと彼の雄姿をスマホのカメラでおさめることだけだった。(なにしてんだ)

それでも。せめてものはなむけとお礼にと、スタッフルームの冷蔵庫にしのばせ日々大事に食べていたみかんを彼に、と稽古終わりで演助氏を探した。けれど──どこを探しても彼の姿は見つからなかったのだった。


初日を無事に終えたその夜、私は演助氏にこんなメッセージを送った。

「冷蔵庫に私が隠し持っているみかんを一つ、はなむけに…と思ったのですが、お姿が見えず、渡せず; 今度いらしたときに差し上げますね! 小粒ながら甘いです」

そう、その日私は、あんなにも世話になり心の支えになってくれた演助氏に、みかん一つ最後に渡せなかった。
みかんがみっかんなくて、じゃなくて、演助氏がみっかんなくて。ぐすん。

けれど、全体ミーティングの挨拶で彼が、
「千秋楽までにまだ何回かは来られると思います」
と言った定かではない希望を胸に、彼の再訪を待ち望みながら日々頑張ろうと心に決めた。
(いや、そうでなくてもこの舞台自体素晴らしかったので、立派に務め上げようという気持ちはそもそもいっぱいだったけれど。)

メッセージは、既読にはなったけれど、返信はなかった。


そうして翌日。
あれ? 本番前のスタッフ席になんと、演助氏の姿があるではないか!

遠巻きに座組の皆さんとのやり取りを窺ったところ、急遽時間が空いてさっそく来られたらしい。昨日皆んなに最後の挨拶をしたばかりなのに、とちょっとバツが悪そうにしている。

わあい。と一気に毛羽立つひよこ。
とはいえ反面、昨晩あんなメッセージを送りつけて返信は貰えないままで……気まずい!

すると、演助氏がこちらに向かってくるではないか。
ぐんぐんやって来て、そしてあっという間に私の横に来て、こう言った。

「メッセージありがとうございました。
みかん貰いに来ました」

うへへへへへぇええん!!涙

「みかん貰いに来ました」
「みかん貰いに来ました」
「みかん貰いに来ました」

あげるあげるあげますよみかん!
何個でもあげますよみかーん!

みかんを貰いに来てくれた。
私のみかんを、貰いに来てくれた──。


ひよこから一気にニワトリなったかの勢いでスタッフルームへ駆け込んだ。
コーケコッコーーー!!

そして、小さなみかんをひとつ彼にあげた。
また来たらまたあげますよと冗談ぽく言ったら、

「じゃ、明日来ます」。

冗談か本当かわからなかった。
でも本当に、嬉しかった。


彼とはそのあと……どうなったわけでもなかったけれど。
「みかん貰いに来ました」
これ以上のことはもうないだろう、そう思えてしまうほど、そのひと言だけでじゅうぶん、昇天できてしまった言葉だった。

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