【妊娠と出産を振り返る】妊娠発覚~妊娠初期
妊娠と出産を経て、たくさんの先輩ママの記事を読み、励まされてきたため、自分でも記録を残すことにする。
筆者のプロフィール
2022年に結婚。2023年、情報サービスの会社から貴金属小売り会社に転職。妊娠判明時は、33歳。
妊娠判明
33歳、結婚2年目、7月の中旬、そろそろ子どもがいてもいいね、と話していたころ。夫婦でコロナに罹患し、のどの強い痛み・咳と闘っていた。翌週、熱は下がったものの、倦怠感が抜けない。夫も倦怠感を訴えていたため、コロナ後遺症か、、?と思いつつ、月経が来ないので、市販の検査薬を使用したところ、陽性反応となった。
二人とも体調が万全ではなかったため、映画やドラマのように泣いて喜ぶこともなく、コロナで誤検知したかもしれないし、病院での診断を待つことにした。
病院がお盆休みの時期だったため、翌週病院に行ったところ、妊娠8週目、3月下旬出産予定となることが判明。赤ちゃんの心音も確認できた。ドクドクという音を聞くと、おなかの中に命があると実感でき、少し涙が出た。帰りに役所で母子手帳とマタニティキーホルダーを受け取った。
また、妊娠の超早期に行っても、赤ちゃんの心音が確認できない場合は再来院することになると知った。この場合、母子手帳の受け取りも延期となる。
つわりとの闘い
コロナ後遺症だと疑っていたものはつわりだったことになる。超初期の段階では、コロナ後遺症と時期がダブっていたが、一日中だるさが抜けなかった。妊娠が判明してからは倦怠感に加え、朝方の激しい吐き気・胃痛・食欲不振が日に日に激しくなっていった。
特に朝方の吐き気が激しかった。しかし、30分程度すると落ち着いてきて、いつも通り行動できた。毎日30分早起きして「オエオエタイム」を設け、少し落ち着いてから出勤するようにしていた。
日中は眠気が強くなる時があり、打ち合わせ中は眠気との闘いであった。疲れやすく、仕事を終えて帰ってくるとへとへとになってしまい、20時に就寝することもしばしば。
断続的な気分の悪さは、処方してもらった胃薬を使用したり、ミンティアやグミ、キャンディを食べることで対策した。異常にのどが渇き、常に1リットルの水を持ち歩いていた。食欲は普通にあったが、通常時の50%くらいの量しか食べられなくなった。
つわりは、症状に個人差が大きく、まったく動けなくなったという知人もいたが、私は対策することで乗り越えられたので、まだ軽いほうだったように思う。職場で体調が悪くなったときは、トイレで数分休憩することで体調を回復させたりしていた。体調不良でお休みをもらったのは1日だった。
職場への報告
直属の上司への報告は、9週目にした。産休に入るのは規定通り30週になってからとしたいこと、出産前の時短勤務は考えていないこと、あまり若くないので全体への報告は安定期に入ってからとしたい旨を伝えた。
若い女性が多い職場で、直前に産休に入った方もいたので、一定の理解が得られると思ったが、急な体調不良で全体に迷惑をかける可能性があるので、妊娠していることを全体にできるだけ早く報告してほしいと言われた。意固地になってしまい、休みたいと伝えづらくなった覚えがある。結局、好きなタイミングでの報告でよいと言われたため、安定期に入ってから全体への報告をした。
産院の予約
両親に妊娠の報告をしたところ、「生まれたらうちにおいでよ」と言ってくれた。産後のサポートが欲しかったので、里帰り出産をすることにした。里帰りとはいえ、自宅から実家までは30分程度だが。
もともと、妊娠を診断してもらった病院でも、「当院も3月はすでに分娩の予約がいっぱいです」と言われていた。
検診の通いやすさや、実家からの距離、何かあっても施設が充実していることを考慮し、赤十字系の病院を選んだ。「産院の予約は、紹介状の受領後、電話でお願いします」とのことだったので、休憩時間に電話をかけたが、何度かけてもつながらない。予約がとれなかったら路上で産むことになるのだろうか、、という不安な気持ちでいっぱいだった。翌日、昼休みにカフェから電話を掛け、鬼電の末、やっとの思いで予約が取れた。
分娩予約が取れな過ぎて、無痛分娩や和痛分娩を考える余裕はなく、自然分娩となった。そもそも、無痛分娩は経産婦のみしか選択できないことも多かった。
分娩予約のストレスは妊婦には厳しいものがあったので、母子手帳を受領したら産院からうちに来ませんか?とか言ってくれたらいいのになと思った。少子化って本当なの?と感じた出来事であった。