先祖のセンス
もう散々言われていることだろうが、尿意を催す頻度が高いことを「トイレが近い」と最初に表現した人はセンスが良すぎる。時間的な距離を物理的に換算するという飛躍をサラッと行っているのに違和感がない。その表現が後にこれだけ定着しているのもすごいことだ。
この方式でなんでも表現できるかと言えばそんなことはなくて、例えば頻繁に間食をとってしまうことを「ドリトスが近い」とは言わない。必ずしも間食=ドリトスではないので仕方ないのかもしれないが、「おやつが近い」でもなんかしっくり来ないので、やはりトイレだからこそ根付いた部分はあるのではないか。対象と表現がピタッときているのだ。
「トイレが近い」の発明者はおそらくもう亡くなっているだろう。だが、当人が子を持ったのであれば、その子孫が今もどこかで生活している可能性は大いにある。彼らはそれを認識しているのだろうか。自分の先祖が、類い稀なセンスで後世まで残る画期的な表現を生み出したことを、果たしてわかっているのだろうか。
多分、何も知らずにドリトスをボリボリ食べている可能性の方が高い気がする。そして、きっとそれはそれでいいのだろう。
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