子規の利き手について
子規の利き手についての議論を某所で見た。
ちょうど回答になりそうな文章が手元にあるので、備忘もかねて以下に記す。
子規の利き手
子規と同郷の友人であり、雑誌「ほととぎす」の創始者である柳原極堂が記した『友人子規』には以下のような文章が書かれている。
子規は幼少の時から左利きで、左手で食事をするため外祖父観山にきびしく戒められたこともあり、学校へ弁当を持ち行くと教師から注意され、弁当は右手で食べよと八釜(やかま)しく言われるので遂には学校へ弁当を携帯せぬことになってしまった。右手で食事をするようになったのはズット後年のことであると母堂の談に出ている。「筆まかせ」のうち「右手左手」と題するものを見れば「右手にて文字を書くこと巧になれば左手にて書くこともその割合に発達するものなり」と自己が左書きに自信あるその体験を語っており、明治二十二年五月喀血せし後、大原恒徳に書を送ってその状況を報ぜしものの内に「右の肺がわるき故何をするも左手をつかうは真の杞憂にして苦痛のわけには無之候」とその左書きにしてある言訳を言っている。あれこれを見るときはその左利きなることを充分に証していると共に、彼はその習癖を苦んで矯正しようとはせず、却てそれを詩化して自ら喜んでいる気持がうかがわれる。(柳原極堂「友人子規」より抜粋、一部大穗により現代仮名遣い化)
上記の文章の通り、子規は幼少時左利きであったが右利きに矯正した。右肺を病んで後は右腕が使えず、左利きで過ごした。というところが真実のようである。
ほとゝぎすの創刊者、柳原極堂
友人子規は子規の没後に、同郷の友人である柳原極堂によって記された本であり、子規の少年時代からの興味深いエピソードが多数載っている。
ところで、「ほとゝぎす」を創刊したのは正岡子規である、というのはよくある間違いで、実際の創刊者はこの文章を記した柳原極堂である。Wikipediaの記載も間違っていたので誤解している人が多いかもしれない。