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人が人に興味を持ちすぎる件

どうも、029(oh!nick)です。
思考の整理のためにnoteに書き留めようと思い立ちました。初めまして43歳の独身未婚のホモサピエンスです。
素敵な想い…とか、ポジな言葉…とか、ネガな言葉とか、だれかのため…とかは特にないです。
言葉の引出がたくさんある人間ではないので、文字の垂れ流しになりお目汚し、脳内汚しをしてしまったら…めんご。
あえてここで一番大事にしようと決めた事が1つ➡自分の性別をあえて公言しないという事。
文面や書く事柄で予想は簡単にできるでしょうが、事実は正直どうでもいい。そういう事。
今日はここ数年ずっと感じてる事を書き留めようと思います。

人が人に興味を持ちすぎるという事柄について。
人が人に興味を持つ事柄として、わかりやすく日常の中で言えば「うわさ」「悪口」「ステイタス」がある。その興味を利用したSNSの需要量を見れば人がどれだけ人が人に興味があるかが容易にわかる。そして多くの興味や関心は人に波風を立てる…。
世の中には多くの考えが哲学として大量にはびこっていて、メディアや商業の中に練りこまれている。
自分もその色々な考え方を情報として受け取り、正しいと思いこみ、多くの言葉たちに流され生きてきた。
中でも「人は嫌われることより、無関心が一番がつらい」という言葉があった。それを信じてきた自分が長年いた。でも最近気が付いたのは、変化したともいえるのかもしれないが、今の自分の日常生活においては「無関心」が居心地が良い。
人は説得力のある言葉に弱く大切にしがちで、「いい言葉」「いい考え」が自分に合ってるかどうか置き換えて考える人が少ないように思う。
無関心が心地良いというのは、自分のキャパが狭いという事でもあるのかも…と認識していて。日々仕事をし、自分と猫の管理をするだけで日々精一杯。他者へ関心を寄せるほどのキャパがないのである。40歳を超えてからようやく自分の特性を認識したからでもある。
他者に関心を向ける時は、あえて時間を作らないと、予定を立てる事すら困難だ。
時間を作り知人と会う時は自分の中でかなり重荷になる。嫌いではない、ただただ重労働なのだ。パワーがかなり必要になってくる。
もちろん、人と会う事は自分のアイデンティティを確認したり、人との時間を楽しみ、関係性をはぐくむことは嬉しい事柄の一つではある。大切。でも、得意分野ではないのだ。
自分に関心を寄せられて「仕事は何をしてるのか」「恋人はいるのか」「好きな人はいるのか」「最近どう?」等と聞かれることが精神的な負荷がすごい。答えたくないとかではなく、関心がつらい。ただ…辛い。「関心をもたないでほしい」と思うんです。でもこれは本当に無意識で仕方ない事。もちろんトラウマ的な…精神的な…なんて分析される気も、する気もさらさらない。思考や精神をカテゴライズされてもされなくてもこれが自分で、変える必要があるところもあるし、変えなくてもいい良さもある。決して根腐れしてるわけではない。
よく耳にする言葉たちがある
自己肯定感が…承認欲求…あってもなくてもいい。
ポジティブ…ネガティブ何方でもいい。
多様性、画一性どっちでもいい。
人にはどれも存在し、時と場合で変わるし強弱もある。ただそれだけ。
人に関心が強い人は、パワーがあると思う。自分は人への興味にパワーがないのだ。
でもね、案外いいやつなんです自分。なんて自己防衛をちょっとだけして、今日はおしまい。




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