青い花から抜粋。
昔は自然が今よりももつと生き生きとして感動が深かつたのにちがいない。今では動物には感じられないで、人間だけが特に感じたり樂しんだりしている、あの自然の作用というものも、昔は生命のない物をも動かしたとみえます。藝術家だけが今ではとても信じられないような、お伽噺みたいな事柄をつくりだしたり實現したりするのです。太古の時代には、今のギリシャの或る地方では、旅行者が土地の人々からきいた傳說によると、不思議な樂器を奏する詩人がいたということです。その珍妙な音で森のかくれた生命や樹の幹の中にいる精を目ざましたり、荒れた土地では枯れた草木の種を感動させて、花園をつくりだしたというのです。亂暴な動物もその樂器の音で馴らせるし、野蠻人にも秩序と風習とをおぼえさせて、よい趣味や平穩な藝術を生ませるようにしたり、また激流を變えてしづかな流れにしたり、固死している岩石を踊らせて規則にかなつた舞踊をさせたというのです。詩人たちは預言者であると同時に祭司でもあり、立法者であると同時に醫者でもあつたのですね。彼等の魔術によつて超人間の力が得られたので、彼等は未來の祕密を敎えたり、あらゆる物の調和だの自然の組立だの、また數字の祕密だの、生物の中にある內的な效能や治癒力だのを啓示したというのです。傳說によると、その詩人たちがあらわれて以來、亂雜に混亂していたありとあらゆるものが、はじめて自然のいろいろな音響となり、その特殊な共感と秩序を得て來たのでした。ただそこに不思議なことには、そういう完全な人間がいたという美しい跡が今日の記念にのこつてはいるものの、彼等の藝術か、それとも自然界の美しい情緖か、いづれかが失われてしまつていることです。
こういう時代に、一人のすぐれた詩人というよりも音樂家——口というものは動く耳だし答える耳なのだから、口と耳とが關係のあるように、音樂と詩とは關係していると思われますが——というべき人が海を越えて外國へ渡ろうとしたのでした。その音樂家は美しい寶石やお禮に贈られた高價な品々をどつさりもつていました。彼は海岸に一艘の船があるのをみつけました。船の船頭はきめた船賃で彼の行きたいところへ彼を渡してやると約束したのでした。ところが、彼の持つている金銀財寶をみると、急に船頭達はそれがほしくてたまらなくなつて、この音樂家を途中で海へ投げ入れて、その持ちものを山分けしようぢやないかと相談をした。ちようど海のまん中にきたとき、彼等は音樂家に襲いかかつて、海中へ投げこむから覺悟しろといいました。で、音樂家は彼のもつている財寶の總てを身の代にあげるから、命ばかりは救けてくれといい、もしもどうしてもきかれないなら大難が起るかもしれないぞと預言しました。しかし何といつても彼等の心をひるがえすことはできません。というのは、音樂家の命を助けたら、いつかは、この惡事を暴露するかもしれないと懸念したからです。彼等の決心の動かないのを見てとるや、音樂家はせめて死ぬまえに彼の最後の一曲を彈かせてくれとたのみました。そうすれば、彼の地味な木製の樂器を抱いて、彼等の目の前で自分から海へ飛びこむからと、そういいました。船頭たちは、もしも彼の魔法の歌をきいたら、心がやさしくなつて、後悔するようになるかもしれないということは、よくわかつているので、この最後のねがいをきいてやるにしても、歌つているあいだは耳をふさいで聞かないようにしていよう、そうすれば彼等のたくらみもやりとげることができようと、考えるのでした。で、その通りにやつてみることにしました。ところが詩人はかぎりなく哀傷をさそう、すばらしい歌をうたいはじめると、船もろとも共鳴して、波も歌えば、太陽も星もともに空に顏を出し、靑い潮の中からは、魚や海の怪獸の群が躍りながらあらわれて出てきました。ただ船頭たちだけは、耳をしつかりとふさいで、むつとして立つたまま、歌の終るのを待つていました。まもなく歌は終りました。
そこで歌い手は、はればれとした面もちで、ふしぎな樂器をかかえて、暗い水底目がけて飛び込んだのでした。ところが、彼がかがやく波にふれるかふれないうちに、歌の御禮をする怪獸が彼の下に浮び上がつて、その廣い背中に彼をのせて、彼のめざす岸邊に着きました。そうして、その岸の蘆のあいだに彼をそつとおろしてくれました。詩人はこの救い手のためによろこびの歌をうたい、お禮をいつて立ち去りました。やがて彼はたつたひとり海岸に行つて、あの失つた財寶のことを嘆きながら、美しい調べを奏しました。その財寶というのは、彼の幸福な時代の記念として、また愛のかたみ、感謝のしるしとして、彼にとつては値うちのあるものでありました。彼がそうして歌つているあいだに、突然海の怪獸があらわれて波を分けてやつてきました。その怪物は腮から、あの掠奪された品々を砂の上に落しました。あの時、船頭たちは、詩人が海へ飛びこんだあとで、さつそく彼の遺した財產の分配をはじめたのでしたが、仲間のあいだに喧嘩が起つて、たがいに殺し合うあらそいとなり、しまいに大部分の者が命を失つたのでした。あとに殘つた少數の者だけでは、船を御することができず、間もなく暗礁に乘り上げて、船は裂けて沈んでしまつたのです。命からがら助つた者も、何にも持たずに、みじめな姿で陸へはい上がったのでした。それで、美しい歌をきかせてもらつた御禮に、海の怪獸たちは、力を合せて海に沈んだ財寶をさがし出し、もとの持ち主にもつてきたのでありました。
昭和二十二年発行 蒼樹社