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君は魚になれなかった
君の死体はエビにつまみ食いされている。最下層しか知らない永遠の深海魚だから。上の階層を味わったことがない、だから働くことで得る階級の心地よさも想像できない。普通の魚たちを憧れていてはしてもマーブルパシェットになりたいわけじゃない。低層も中層も自由に行き来する、そんなコリドラスピグマエウスの群の一部として水槽に存在してみたい。そして死んだ後にはやはりエビたちの群れにつまみ食いされることは免れ得ないだろう。
見たものが君の生きる世界になる。コリドラスを観察しているとき、君はもうコリドラスだ。サイアミーズフライングフォックスを見ているとき、君はもうサイアミーズだ。魚たちは狭くて透明なガラス箱の中でようようと泳ぎ回る。低床に鰭をつけて泳ぎ回るものから、壁面の苔をこしとりつづけるオトシンクルス。君は、君の気に入った魚になることだろう。それはグラミーかもしれない。グラスキャットかもしれない。あるいはセネガルスか。サカサナマズのように反転した世界を動き回るつもりはないだろう。彼らは上が下で横は横のままだ。パシェットとぶつかるようなら、左通行は右通行のまま反転するだろう。
君は、君の泳ぎたいスペースを泳ぐといい。上でも真ん中でも下でも、泳ぎやすいところを自由に泳ぐことができる。マーブルパシェットになれば頂点を、クーリーローチであれば最下層を。そうして皆んな各々の生きるスペースを分け合っている。低床の上では落ちてきたペレットはご馳走だ。テトラたちが貪り食ったペレットのカケラはゆらゆらと低床へと舞い落ちる。それをぼそぼそと吸い込んで噛み砕くコリドラス。彼らはいろんな外見を取り揃えた熱帯魚の中でも特に人気なコレクター向けの魚だ。白っぽいアエネウスからスポット模様の美しいステルバイ、飼育するのが難しいとされる野生種のハステータス。可愛いと思ったコリドラスを選んでね。
さて、ガラスの前に座り込む君の生きる世界ではドライな空気が身を包んでいる。世界との境界は空気によって断絶され、それぞれの生きるリアリティが個人的な現実として、他者との世界の断絶を生んでいる。君の過ごす現実はとてもリアリティを感じられたものではない。心的外傷を負ったことや慢性的な空虚感の中に生かされたこと、それらの十数年に亘る精神的な抑圧が君を夢見状態の幽霊にさせた。朝起きては体験した夢の内容を振り返りノートに書き写す。そうして確かな実感を夢の中へと求め続けるのだ。実際に過ごす現実世界でのリアリティの無さと来たら木村敏が関心を寄せるくらい。君みたいな離人症患者が世界に対して弱腰なのは、きっとこの世界を噛んで味わうことを諦めたからだと思う。この世界はもうすでに他者の手に渡った。君の世界はもうずっと遠くの知らない誰かの生きる現実へと変換された。もうここには現実の残りかすしか残っていない。君のリアリティは閉ざされた。世界は空虚と化し、存在感は希薄なものとなった。あらゆることに当事者意識や実感、現実感を伴わずにゆらゆらとゆらめいては夢に浸る。君の生きる現実はそう、まるで「一旦木綿の演劇」だ。宙に浮かび風に煽られ、劇場では配役が決まらないままにステージで見せ物にされる。君の能動と恣意は観客たちによって剥奪された。意欲もないだろうからこれからの君のあだ名は「ゆら」になる。ゆらゆらと宙に漂うペレットの食べかすのような生を送る君にはぴったりのあだ名だね。コリドラスたちに貪り食われ、エビたちには残された僅かな身体を解体され続ける運命が君の現実には到来することだろう。そう、もうわかったね。君は魚になれなかった。君はエビたちの集団に紛れることも、スネールとしてガラス箱を探検することもままならなかった。君のガラス箱での立ち位置はペレットだ。魚たちに齧られては気泡を浮かべながら落ちてゆく。君はペレット。