Ohno_4
最近ぼくも、自分の身体について考えていました。
ぼくの場合は25歳になるまで特に大きな怪我もしたことがなく、常用している薬などもないような至って健康といえる身体を持っていたのですが(いまも全然健康体ですが)、なぜか25歳を過ぎてから年に一回以上は必ず体調を崩すようになってしまいました。
ちょうど先週も月曜日の夜に38.5℃の熱を出してしまって。「あーこの感じ、いつものやつだ」と分かるくらいには慣れ親しんではいるのですが、このご時世ですし、流石に何かあってはまずいと思い検査を受け、やはり陰性だったものの、体調が戻らないうちは仕事を休みました。助手業務も自分の制作もなにもかもストップです。
ようやく金曜日になって回復したので、その日は出勤しました。結局回復するまでに4日近くかかってしまいました。にも関わらず、いまもまだ少し鼻声気味という有り様です。
金曜日久しぶりに職場に行くと、ありがたいことに同僚の方がぼくの分の仕事までこなしてくれていて、全くぼくがいなかったことが嘘のように、つつがなく日常業務が繰り返されていました。今更そんなこと当たり前ですが、まあ「ぼくがいないと困る」なーんてことの方が圧倒的に少ないわけで。ただ、ありがたいことに(?)ぼくしか把握していないようなことは、手付かずの状態なところもありました。
その時フと、自分一人分が抱えている「責任」のようなことを考えました。「責任」というと堅苦しいので、いまは「自分のパート」と言い換えています。
小中高の合唱コンクールで、課題曲に対して「自分のパート」が、ソプラノなのかアルトなのか、はたまたバスかテノールか。そして、それぞれが「自分のパート」を全うすることで、一つの課題曲が出来上がる、みたいなイメージです。?
久しぶりに職場へ行き、溜まっている仕事と、同僚が片付けてくれた仕事を見比べて、なんだかこれまで毎日忙しそうに仕事をしていたような気がしていたけど、「自分のパートはどこにあるのか」と冷静に見渡してみれば、「ああ、ぼくのパートはこれだけだったのか」といやに冷静になっていました。
話は変わりますが、最近ぼくの中の「歴史」についての興味のポイントが増えたような気がしています。
新たなポイントは、この大きな大きな「歴史」の流れの中の一体どこに「自分(私だけに限らず)のパート」があるのか、ということです。そして、もう少し歴史の中の「自分のパート」に自覚的になってもいいのかもと考えています。それって社会の中の「個人の規範や価値観」ってことに少し通じるのかな、?「自分のパート」に自覚的になるってなんだか須賀さんのいう「正直さ」にもしかして少し似てる?、、、いや違うか、
なんてことを考えながら、鼻声なのをいいことに病み上がりのふりをしつつ、歴史の中の「自分のパート」ってなんだろうねみたいなことをテーマに作品ができたらなあと思っています。