お母さん、あの時、おしゃれな日記帳をプレゼントしてくれてありがとう。
長い長い時間を費やして、1秒そこらで敗北するのは心底辛い。
平内(ジャイアンツの一応中継ピッチャー)マウンドに上がってから、一球しか投げてない。
おまけにそれが逆転勝利のホームラン。
おめでとう、オースチン(横浜の昨日の4番 なんかおとといの試合で色々とでキレてたもんね)
ちょっとお茶飲もうとしてコップに目を向けた隙に、決まってた。
はっ?何が起こったんだ?と目線を戻しても後の祭り。
時間は絶対に巻き戻らない。
はぁ「ラーラーラ ラーラーラ 言葉に出来ないー」だっけ?
まあいい、気を取りなおして今週も生き抜くぞ!おーーーーっ!
呑気でいいな。自己分析すると、別に明るい性格って訳じゃない。
いろんな事があったらどよーんと考えるし、落ち込んだりもするけど、それがずっと続けられない。そういう空気を抱え込む時間が長続きしないだけ。
たまには海の底にへばりついた目に見えない生き物のように、身体中にかかる、カップヌードルの容器をキーホルダーにできるくらいにする水圧を楽しみながら「ふっ、私って・・・、」って落ち込んでみたいけれど、なんだろう、結局「やってらんないぜっ」てすぐに浮上してしまう。
立ち直るとかそういう感じでもなく、ただ、それ以上、おんなじ環境を過ごすことに耐えられないだけって言った方が近い。
他の事がしたくなるし、せっかちだからそういう時間に飽きる。
前向きとか楽観的とかそういうのともなんか違う気がする。
飽きやすいんだな、ただ単に。
お母さんにプレゼントしてもらった日記帳きっかけで、小学校に入学した時から日記を書いてるんだけど、それをみても明らか。
ある日の日記に、
「今日、学校の帰りに靴を履こうとしたら、靴箱に靴がなかった。でも私は私の靴を隠した犯人を知っている。同じクラスの安藤だ。あいつはわたしが転校してくるまで成績がクラスで一番だった。この間のテストで私に負けた事が悔しいと他の男子に言ってたらしい。おまけに私のことを「生意気で可愛くない」とも言ってたらしい。どうして一度負けたくらいでそんなことを言うんだろう。そんなに悔しいなら次のテストで勝てばいいのに。別に靴がなくても上履きがあるから、それをはいて帰った。靴なんか隠してバカみたいだ。ちょっと嫌な気持ちになったけれど、私より嫌な気持ちになるのは安藤だ。
と、書いてあった。そう、いつも日記の最後はなんとなく「だからなんだ」「べつに大したことない」「っていうか、わたしは平気」みたいなくくりで終わっていることが殆ど。
そして、次の日の日記には、
「今日、安藤が昼休みに外に行ってる間に、教科書とかがはいったランドセルに、校庭の砂をいっぱいつめてやった。そうしたら学校が終わってから、安藤がお母さんと一緒に靴を返しにきた。安藤は怒られたらしい。
その後、お母さんが出したケーキを食べて帰っていった。
ケーキなんか出さなくていいのにと思ったけれど、安藤も美味しそうに食べてたから、もういい。ランドセルに砂を詰めたことは怒られなかった。
その夜はどっちが先にお風呂に入るかで弟とケンカになってお父さんに叱られた。
本が読みたくて後にしたかったけど、先に入ったら気持ちよく続きが読めたのでよかった。今度からさっと入ろう。
いつもこんな風。
あーだー、こーだ、なんだ、かんだ、でも、良かった。と、殆どのページがそれで終わっている。
多分、暗い事とか嫌な事で書き終わるのが、ただ単に嫌だったんだろうなと思われる。
それに、日記帳は鍵付きにもかかわらず、忙しくしてるお母さんとの交換日記の様相を帯びていたから、それも関係してるのかもしれない。
心配っぽい事をさせたくなかったのか、弱っちい子供だと思われたくなかったのか、どっちにしてもそれが癖になって今に至るなのだろう。
だから、なにかあっても暗い時間を長続きさせることができない。思慮深くないと言われればそれまでだけれど、他にやりたい事や興味ある事があるから、そっちに気がいってしまって、時間がもったいない気がしてくる。
そりゃあ人並みに、ショックな事も、しつこく打たれたボディブローが後から効いいてきて、うずくまった事もあると言えばある。
でも、だめなのだ。「なんとかなる」「こんなもの今だけだ」「それよりお腹がすいた」そうなってしまう。
これは「でも、良かった。終わりよければ全てよし日記」を書き続けてきた結果だろう。お母さん、おしゃれな日記帳をプレゼントしてくれてありがとう。
一球で打ち砕かれた4時間近くの日曜の夜の時間よ。
もう戻ってはこないけれど、おとといはうなだれていた青いユニフォームを着た夏休みの小さなDNAファンの、跳び上がらんばかりの笑顔が可愛かったから、それでヨシとしよう。うちの平内からの最高のプレゼントだ☆受け取ってくれ。
よかった、よかった。