今日が雨でよかった
小学生の頃の夏休みの宿題に絵日記があった。
日付の右側に毎日の天気を書かなくてはいけず、僕は夏休み終盤に必死に思い出しながら、でも適当に一気に書いていた気がする。
「なんで天気なんか」
そう思っていたけれど、大人になった今、天気というのは案外重要であると知ったし、何かの予定が近づいてきた時には yahooの天気予報で前もって調べるような習慣もついた。
ああ、今年の6月9日の金曜日は雨か。
数日前からそんなことを思って過ごしていた。
それまでの数日は比較的晴れた日が続くのに、今年の僕の誕生日である6月9日はどうやら雨が降るようだった。
別に外に出かけるわけでもないし、雨が降ったとして傘を差せばいいだけではあるけれど、やっぱりなんとなく誕生日が雨になるという予報には少し憂鬱な気持ちになった。
僕が住んでいる地域は火曜日と金曜日が燃えるゴミの日で、誕生日当日もまずはゴミを出しに行くところから1日が始まる。
そうですよね、雨予報でしたもんね。
そう心の中でグチをこぼしながら、玄関からゴミ収集所までのわずかな距離を、わずかに雨に濡れながら歩く。
ゴミ出しを終えて、朝のシャワーを浴びようかと思った時、スマホを見ると父からLINE が届いていた。
誕生日おめでとうって連絡だろうな。
普段は連絡を取ることが少ない父からのLINE。
誕生日に来る連絡は誕生日のお祝いだろうとは、想像しようとしなくても想像がつく。
それは天気予報よりも当たりやすい予想だと思う。
「瞬、誕生日おめでとう。瞬が山形で産まれた日も、石巻は今日みたいな雨の日だったな。夫婦二人で仲良く頑張って」
予想よりは少し長めの文面で、ちょっと意外だった。
僕は母親の里帰り出産で山形県天童市で生まれた。
父の「石巻は今日みたいな雨の日だったな」という言葉に、そうか、父は僕が生まれたその日、石巻にいたのかと知った。
第二子とは言え、我が子の誕生を少し離れたところで雨の日に迎えるのはどんな気持ちなのだろう。
温かいような、少し寂しいような、経験がないから分からないけれど、そんな想像をしてみる。
ただ、父は僕の生まれた日の天気を覚えている。
そのことがなんだか嬉しかった。
それで、僕も思い出してみる。
誰かと初めて会った日の天気を。
妻と初めて会った日は確か晴れていた気がする。
けれど、それが本当かどうかは正直あまり自信がない。
「今日は暑いですね」
「午後から雪になるみたいですね」
「台風が近づいていますね」
天気の話は、小学生の頃の僕がそう思っていたように全然重要ではなくて、他愛もなくて、便利で、当たり障りがない。
だからこそ、話す内容がなくても使えて、だからこそ、簡単に忘れてしまって思い出せない。
「瞬が山形で産まれた日も、石巻は今日みたいな雨の日だったな」
でも父は、その全然重要ではないはずの僕が生まれた日の天気を覚えていてくれている。
きっと台風でもなくて、暴風雨でもない、ただのある雨の日に過ぎなかったはずなのに。
そう思った時に、
「ああ、今日が雨でよかったかもな」
少しだけそう思えてきた。
今日、僕が34歳になった日が雨だったことを、きっと僕は他の日よりも少しだけ長く覚えていられるような気がしたし、覚えていようかなと思った。
「今日の短歌」
この雨も覚えてたいな スムージーを君から少しもらったことと/近江瞬