2024年、滋賀球団に思うこと-2023年に思ったことを添えて
さあ滋賀球団活動再開の約束の2024年が幕を開けましたが、滋賀球団ファンの皆さんの心持ちはどのようなものでしょうか。
新年早々いきなりですが、ひとつ残念なお知らせをしないといけません。
私やもは滋賀球団の活動再開について、もう希望を持っていません。
あんなに一生懸命に応援していたのに、あんなに楽しそうだったのにと思われる方もいらっしゃると思います。
失望する方もいらっしゃるかもしれませんが、本当に申し訳ありません。
滋賀球団の解散、これは私にとって既に受け入れている未来です。
ここまで何の音沙汰もない。
「24年の活動再開の約束」が信じられなくなる状況証拠は十分揃っているのです。
「滋賀球団はもう無いもの」として自分は考えています。
23年の開幕ごろにはまだあきらめていなかったと思います。
決定的だったのは8/12の城南での試合。
試合前に工藤に会い、グラウンドにいる片山と小原を見て、期せず柴田にも会えて、あの日が間違いなく最大のターニングポイントでした。
8/31の千葉球団の会見で、オセアングループへの個人的な信用は完全に無くなりました。
9月の綾瀬行きは、個人的に卒業式のようなものでした。
その時の心情はこのノートの下の方をご覧ください。
(書いた当時に公開したら選手に失礼に当たると思ったので…)
なんでこのタイミングでそんなことを言うのかと思われる方もいるかもしれません。
独りよがりな理由で申し訳ないですが、私が2024年を明るく前向きに歩みたいからです。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私の職業は大学教員で研究者です。
このたび4月から神戸にあるとある大学で准教授のテニュア(無期雇用)ポストをいただくことになりました。
その採用決定があったのが、23年の10月末になります。
この大学でテニュアの教員になることは、19年前に自分が立てた夢でした。
野球界で例えるなら、独立球団選手がNPB球団にドラフト上位で指名されてレギュラーが確約されているくらいの栄誉です。
私だけでなく数多くの研究者が就きたいポストで、1つの椅子を目がけて競争に勝ち抜いた結果です。
私はその期待に応えたいと考えています。
新たな職場の話の前から滋賀球団の件について腹は括っていたのですが、新たな職場の決定が今回のお気持ち表明にも繋がっています。
個人的に2024年は職業人として、新たな門出の1年になります。
今までは滋賀球団と滋賀県を盛り上げるためにやもとして頑張ってきましたが、今年からは研究を通して滋賀だけにとどまらず、日本をより良い国にしていきたいと思います。
愉快で不思議な滋賀県民として今後も応援してください。
皆さんと一緒に声を出した暑い守山球場、勝てない日々、選手のプレイに一喜一憂した思い出、
21年22年の優勝、飛び込んだ琵琶湖のあたたかさ。
滋賀球団の思い出の全てがこれからも自分の原動力です。
万が一、滋賀球団が復活したら、その時は球場にも行きます。
けど、22年までのようなやもはいないと思ってください。
皆さんと一緒に応援するいちファンか、応援団の末端構成員になります。
やもがこの世からいなくなるわけではありません。
BLACK CAMPは活動休止状態で置いておきます。
滋賀県民過激派はやめません。
スポーツ観戦は好きですから、ふらっと全国の球場には現れますし、その時にはまたたくさんお話ししましょう。
飲みにも誘ってください。
神戸でもいい店を探しておきます。
それではみなさんにとって2024年が素敵な一年になりますように。
正月。大津の自室にて。
やも
22シーズンオフに滋賀球団に何があったか
かつてX上で文章にすると言っていた2022シーズンオフの滋賀球団の動向についてですが、やはり文章にできないのです。
正確にいうと文章にするエネルギーが沸かない、と申しますか…。
この文章を書いても、どうあがいてもポジティブな結果を生み出すことがありません。
なので文章としてしたためるためには、かなりの負の感情のエネルギーが必要になります。
基本的に日常生活の中で、一人の時に持ち出したくない感情です。
ですので、自分が文章として公開するのは断念させていただきたいと思います。
じゃあ墓場まで持っていくのか、というとそうではありません。
2点条件があります。
一点目、メディア・ライター・研究者等の方から取材要請があった時
誰か聞き手がいてくれれば、聞き手が受け止めていただけると思うのでお話しいたします。
自分が持っている「記録」に関しては全てお渡ししたいと思います。
「記録」の内容に関しては、各自お問い合わせください。
二点目、「ある条件」が満たされた時
ある出来事が起これば、おそらく自発的に知っている事を話し出すと思います。
ただ、その出来事は「滋賀球団解散」ではありません。
23年5月ごろに書いた手記
今回の投稿はここ2か月くらいの自分の心の中の鬱蒼とした気分を吐露する抒情詩になります。
かつて滋賀球団の情報しか発信しなかった男が、時々「バスケ行ったよ」「サッカー行ったよ」「プロレス行ったよ」くらいしか呟かなくなり、心移りしたのかと思われるのが嫌で、今の気持ちを綴ったまでです。
特に同情を求めるものではないです。
今の自分の心境を、情報として受け止めていただければ、それでよいです。
そうした思いで書いた次第です。
かなり暗い文章です。
「最近は、めちゃくちゃサッカー楽しんでますよね?」
いろんな人から、最近言われる。
「楽しんでいない」というと嘘になる。たしかに「楽しんで」いる。
「滋賀を好きだ」と叫べる場があるのは楽しい。
サッカーだけじゃない。バスケにも数試合足を運んで、レイクスのB1残留争いを「楽しんで」いた。
「楽しんでいる」という感情に関しては何ら否定しない。
ただ「心の底から楽しんでいるか?」と聞かれると、答えは明確にNOだ。
心のホームグラウンドはいまだに守山市民球場だ。
炎天下の、汗の止まらぬ灼熱で、滋賀球団に声援を送っていた夏。
勝てない年も、熱い優勝争い繰り広げた年も、まさに「心から楽しい」と思えた日々だった。
東京で心を病み、帰郷した自分を癒してくれた日々だった。
「24シーズンには新体制となって滋賀球団は活動再開する」らしい。
ならば、今年、自分に与えられた時間は、その復活の日のために、滋賀の地域スポーツの見聞を広めることに使おう。
この体と、この声は、滋賀県と滋賀県のために頑張る若者とコミュニティのために使おう。
そう決めたのに。
サッカーのグラウンドで声をあげながら、ふと我に返る。
この『声』は本来なら彼らに向けられるはずのものだった。
片山に、吉村に、小原に、松下に、長谷川に、奥村に、亜久里に、荒川に、大﨑に、山口に。
なぜ彼らは滋賀で野球をしていないのか。
なぜ彼らは滋賀で野球ができなかったのか。
この問いの答えが分かったところでどうしようもない。
彼らはもう別の「ふるさと」の選手になってしまった。
思うように抜け忍行脚もできていない。
SNS上に流れてくる彼らの情報とファンが投稿する写真に静かに「いいね」だけを送る。
彼らは別の「ふるさと」の選手だ。「滋賀にいた時のように」応援することが「できない」。
何か良く分からないブレーキが自分の中でかかる。
体の一部をもがれたようなやるせなさと憤りと無力感。
日々を「楽しみ」ながらも、常に後ろ髪を引かれる。
サッカーの試合に勝って「最高の週末」なんて口では言いながらも、どこか心が晴れない自分がいる。
この決して「正」とは言えない感情はなんと名状すればいいのだろう。
ある独立球団のOBが「野球とは好きか嫌いかとかそんな次元ではなく、生きるか死ぬか」と言っていた。
彼の意見を否定するつもりはない。
ただ、そのツイートを見たときに、自分は今、死んでいるのか、生きているのか、分からなくなった。
生きたいと思いながら半分死んでいる。
生きたいと思いながら滋賀球団のために何もできることがない。
文句を垂れることで、誰かを糾弾することで、皮肉を言うことで、生きられるなら、毎日そうするだろう。
そんなことをしても何もプラスは生み出さない。
ただ、一時の共感によるわずかな自己承認と、時間つぶしにしかならない。
滋賀球団のファンはまだ死んでいない。
SNS上ではマイペースなように振る舞いながら、顔を合わせるとみんな「まだ生きたい」と言う。
「まだ生きている」ことを恐るおそる確認し合っている。
そして日に日に死は忍び寄ってくるような、そんな感覚に覆われている。
いつか自分は名状しがたい負の感情を抱えたまま、滋賀球団の亡霊になるのだろうか。
そんな事を考えながら日々を過ごしています。
やも
8月14日に書いた手記
この旅は滋賀球団ファンとしての「終活」だ。
8月12日、城南での群馬福島戦のあと、群馬に所属する元滋賀の片山と小原の話を聞いてそう思った。
この日は何かと示唆的な一日だった。
午前中には19シーズンに滋賀に所属した工藤陽平の実家の中之嶽神社に参拝した。
工藤選手本人だけでなく、お父様からもご挨拶いただき、滋賀時代の話や野球界の話に花を咲かせた。
19シーズン滋賀に在籍した選手の近況なども聞いた。
工藤選手も結婚し、かわいらしい奥様も紹介していただいた。どうやら、野球関係の仕事も続けているらしい。
時間は飛んで、城南での試合後、出口に進むと「やもさん!」と声をかけられた。
顔を見てぱっと分からなかったけど(失礼)、間髪なく「柴田です」という言葉に、笑みがこぼれた。
18シーズンに滋賀で正捕手を務めた柴田幸暉だった。
19シーズン前にトレードで群馬に移籍し、引退後、母校の大阪観光大学でコーチをしているという話を聞いていた。今は大学職員をしているようだ。
どうやら、大阪観光大学の教え子が群馬と栃木にいるらしく、その応援に来ているとのこと。
彼もまた、引退後の第二の人生を楽しんでいるようだった。
そのあと、球場の出口を出たところで、小原駿太と片山朋哉が待っていてくれた。
選手を待たせるとは、つくづく選手に失礼なファンだ。
片山の4タコをいじりながら、話はふと、来シーズンの話になる。
両名の希望を聞いてみると、「らしい」理由が帰ってきて、それぞれの決断を激励した。
その後、駐車場の移動中に同伴していた滋賀ファンの一人がこう言った。
「今日だけで、滋賀球団の歴史のほとんど押さえちゃいましたね。やもさんが応援団始めてから、すべてのシーズンに所属した選手に会えたじゃないですか。」
たしかに、チーム創設の17シーズンは東京で仕事をしていたので応援団には所属していなかったが、滋賀に帰り応援団に入った18シーズンに所属した柴田、19シーズンに所属した工藤、あの20シーズンの光だった片山、21/22シーズンのレギュラーの小原とたしかに歴代の滋賀の選手に会って話をしていた。
「ははは。走馬灯みたい。自分、死ぬのかな?」
そう冗談交じりに返したが、ホテルに帰り、ベッドに身を投げ、一日の出来事を反芻すると、これは深層心理だなと思い始めてきた。
「『滋賀球団ファンとして死ぬ』準備をしなくてはならない」
その考えが、心の中に強い決意として浮き上がってきた。
「2024シーズンに滋賀球団は活動再開する」らしい。
しかし、8月半ばになってもその話は一向に出てこない。
こうなると活動再開は半信半疑、いや二信八疑か、一信九疑くらいなのだが、シーズン終了後に解散が発表されたり、何も発表されずに24シーズンを迎えたりするケースを現実的に想定しないといけない。
このままでは死ぬに死にきれない。
話を8月12日の試合に戻そう。
8月12日の城南の試合、自分たち滋賀ファンは去年まで滋賀で使用していた片山の横断幕を、片山の打席に掲出した。
「横断幕なら外野席だろう」と訳のわからぬ知恵を働かせ、暑い暑いと口にしながら、どこか誇らしげに片山の幕を掲げた。
次の打席はまだ先だろうと場外の喫煙所で煙草を吸っていたら思いのほか試合の展開が早く、急ぎ外野席に戻って、息も絶え絶え幕を掲げた。
しんどいしんどいと言いながらも、片山の応援を心から楽しんでいた。
きっかけは「滋賀球団の選手だからその所属選手を応援していた」。
だから「別のふるさとの選手は別のふるさとのファンに応援されるべきだ」と思っていた。
現に小原も片山も群馬にファンができていて、すごく嬉しかった。
ただ、ことの本質はそうではなかった。
「滋賀球団は選手とファンをつなぐきっかけにすぎなかった」ということだ。
こんなシンプルなこと、当たり前なことに、なんで今まで気づかなかったのか。
だからこそ、滋賀を離れて「抜け忍」になっても、ずっと気にかけている。
自分は彼らに会いたいし、彼らはどんな形であれ「自分たちの応援」を喜んでくれる。
それだけの関係を作っていたとは自負している。
なら、やることは結構シンプルだ。
綾瀬に行こう。
綾瀬に行って、YKSの抜け忍たちを応援しよう。
そう思った矢先に、YKSの所属選手の親御さんから横断幕を貸して欲しいという旨のお願いがあった。
断る理由は無かった。
明けて13日、大宮での武蔵茨城戦に行った。
武蔵のホームで武蔵の応援をするのは初めてだった。
クラシカルな野球応援に加え、台湾野球応援、サッカー応援、さらにコロナ禍で生まれたリズム応援まで取り込み、本当に楽しい応援だった。
日本で様々な野球応援がある中で、型にはまらない武蔵の応援が一番楽しい、心からそう思った。
と、同時に2022シーズンの滋賀もその芽が吹き始めていたことを思い出した。
そして武蔵の対岸で、それ以上に楽しい応援をしたかった。
最高に楽しかった守山でのプレーオフを思い出していた。
だのに、叶わなそうだ。武蔵の応援を楽しみながら、ただただ、寂しさが胸を覆った。
試合後、応援団のTOMMYさんのご厚意で、武蔵のファンの皆さんの前で話をする時間をいただいた。
前の晩に『滋賀球団ファンとして死ぬ』覚悟は済ませていたので、胸のうちからボロボロと寂しさが涙とともに溢れた。
来年復活したら滋賀球団で武蔵以上の応援をしたい事、その時には滋賀に遊びに来て欲しい事、復活が叶わなかった時には時々埼玉に遊びに行くから応援に混ぜて欲しい事、そして「もう一度、武蔵と試合がしたいです」と言った後には、もう何も言えなくなっていた。
その後、武蔵ファンの皆様から滋賀コールをいただき、こちらも武蔵コールを返した。
自分の中では、そうはあってほしくないが、送別のセレモニーだと感じた。
さあ、往こう。
自分と滋賀球団の物語を終わらせに。