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わたしがYouTubeを辞めた今でもおかえりなさいという理由



おかえりなさい。
ライフナビゲーターオラヴ153です。

私はYouTubeで2年ほどタロットやオラクルカードのリーディング動画をあげていました。
その際、冒頭で申し上げていたご挨拶は、「おかえりなさい」でした。

オラヴ153?そんなん聞いたことないわという方が大多数だろうと思います。
が、あー!知ってる!という奇特な方がいらっしゃいましたら、その節は本当にお世話になりました!
この場をお借りしましてまずは深く深く御礼申し上げます。

さて、あげていた、という過去形からもお分かりのとおり私はYouTubeから足を洗いました。
足を洗う、という形容はふさわしいものではないかもしれませんが、やはりそれがぴったりくるのです。

YouTubeは無料のプラットフォームだといわれています。
プラットフォームという言葉を調べてみると「システムやサービス」の「土台や基盤となる環境」とあります。
その他にも舞台、演壇、乗降場などの意味があるそうです。
たくさんの人が行き交い、それぞれの目的地に向かう為のひととき集う駅のホーム。
いろいろな思惑や思念などが波のように次から次へと押し寄せてくる港。
その中に飛び込んだら何かが変わるかもしれない。
新しい自分に変わりたかった私は変われるチャンスを掴むべくその広い果てしない海へと岸辺を離れ、オール一本で頼りなく漕ぎ出したのを覚えています。


その海は決して穏やかなものではありませんでした。
真っ暗闇でサーチライトで照らされることもなく、月や星の瞬きもなく、太陽さえ昇らない日が続きました。そこはいつも闇夜でした。
漂うボートに乗りながら、オールをつかむ手には力も無くなり、誰かを求めて語る声は海というブラックホールに吸い込まれて届きません。

もう嫌だ。
何度も何度も思いました。
こんなことやっている意味はあるのか、私の存在はなんなのか。
キリキリと心が痛みました。
この痛みはいったい何の対価を得るためにあるのでしょうか。
私とおなじように大海に漕ぎ出した人たちもきっと同じように己の胸に問いかけたに違いありません。ある者はすぐに諦めて港に引き返し、ある者は静かに舟を別の場所に向かわせ、ある者は疲れ果てて海へ身を投げるように消えていったのです。
その姿を私は遠くから見ていました。
どうすることもできませんでした。

それでも私は声を上げ続けました。
語り続けました。
まだ見ぬ人へ。
ひと言大丈夫だよと言ってあげたい。
その一心で声を上げ続けました。
それは舟を漕いでいる間に見聞きした沢山の人たちをどうすることもできなかった私の贖罪だと思いました。
しばらくすると私を呼ぶ声がかすかに聞こえ、やがて少しづつ大きくなり、はっきりと呼応となったのです。

私の呼び声に応える人達は皆、どこかさみしさと悲しみを抱えていました。
それを怒りとして表現する術しか持ち合わせてない人もいました。
皆、飢えていたのです。
だから私はおかえりなさいと呼びかけました。
安心して、落ち着いて、心配しないで、大丈夫だからとの想いから産まれたひとつの言葉。
おかえりなさい。


北極星を目指していた私は、この大勢の人々を乗せるには自分の舟が小さすぎることに気づきました。
舟には目に見えない傷が無数にあり、それは少しづつ舟底から水を染み込ませ、足を濡らしてしまう者や衣服が湿って風邪をひく者が出てきました。
やめよう。
もうこの舟で運ぶのはこれ以上無理だ。
このままでは舟が沈んじゃう。

私は集まってくださった方達を近くの岸まで運び、舟を手放すことを決めました。
海から岸に降りたった私は、ひとりまたひとりと離れていく人達の背中を見送っています。
楽しゅうございました。
良き時間、夢のような時を過ごさせて頂きました。
我ながら果報者だと思います。

海から陸へと水気を含んだいろいろなものを洗い流して私は地を踏みしめて歩き出します。
これからはnoteという言葉のさながら海のように広い空間を自由に楽しく、そして出逢う人たちへの感謝と愛を持って。

目的は無くていい。いつでも立ち寄って。
お腹すいてるならおにぎり作るから。
カレーと餃子には自信があるから、よかったらそれも。
寒かったら毛布も貸すし、暑かったら風を入れるよ。
疲れたらそこで寝て。
好きな音楽はなんだろう。
やりたいことがなかったらぼんやりすればいい。
いつでも寄っていって。
ここはあなたの家だから。
そう、いつでもドアは開いています。

おかえりなさい。





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