生きてますよ。タシロ先生。
小学2年生の頃だったと思う。
病気で入院しているお友達を励まそうと皆で作文を書きましょうと担任の先生が言った。
バンリ君というその男の子が何の病気だったのかは当時も今もわからずじまいだが、皆は黙々と原稿用紙に向かって書き出した。
『バンリ君のいない教室はまるで火の消えたようで、さみしいです』
と、書いた一文だけは何故か今もはっきりと覚えているのだから不思議だ。
およそ小学2年生が書くような文章でなく、暇さえあれば図書室で読み漁っていた読書量の賜物か。
使い古された引用句だが、その時の私はスラスラとその文が浮かんだのだ。
今思えば、うわっすべりのただ耳障りの良い、気取った妙に可愛げのない表現だった。
本もたくさん読めば覚える言葉は増えるが、それだけで良い文章が書けるわけでもないということを、宿題のつまらない読書感想文を原稿用紙のマス目を潰す為の作業をしながら得た結論だ。
(読書感想文なんて書くものではないし、書かせるものではないと大人になった私は思う)
中学2年生。
その頃はいわゆるヤンキー文化が花開いていた。
積み木くずしという本がドラマ化され、学校内を原付バイクが走り、裏庭にはタバコを吸ってバカ話をしている集団がたむろしていた。
休み時間にトイレに行くと、いわゆるシメられている同級生がいたりしているのも日常だった。
セーラー服や学生服の上は極端に短く、スカートは地面に引きずる程長く、ズボンはダボダボであればあるほど最先端であるとされた。
学生カバンは板のように薄く、片手で持てるセカンドバック状態。
当然その中に教科書は入らない。
ほとんどの生徒はこの先公はアホだ、馬鹿だと見切ると授業を受けなかった。
しかし担任のタシロ先生はヤンキーへの説教をやめなかった。
めんどくせーとソッポを向く者、ふざけんなテメェといきがる者、親父呼んでくるかんな!と父親がそのスジであることを匂わせる者、まあなんと生徒も先生も自由に発言が出来た時代だったのかと思う。
SNSなどない代わりに生身の言葉と感情がガチンコでぶつかり合っていた良き昭和の時代である。
青臭いといえる程真っ直ぐで、痛いほど真剣な生徒への想いを時には激しい怒りをもって、時にはくしゃくしゃの笑い顔で心のど真ん中に投げ込んできたタシロ先生の教科担当は国語だった。
それだけに言葉の持つ力は悪にも善にもなると折に触れて伝えていたように思う。
そんなタシロ先生とどんな経緯で話すことになったのか記憶に無いが、これもまたよく覚えている一片の言葉がある。
『君には文章を書く才能がある。
君はいつか本を書きなさい。
それを読むのを楽しみに待ってるよ』
その時は大袈裟に過大評価されたことに対する恥ずかしさや照れもあり、またそんなことあるわけないでしょと少しシラけた思いが先に立ち、ろくに返事をしなかった気がする。
でもその時のタシロ先生の目はとても真剣で息苦しくさえあった。
その信頼と期待に全然応えられなくてごめんなさい、と詫びる今の自分がいる。
本どころか、生活や仕事や家庭や子供や人間関係や恋愛やお金に追われ、人生の半分まで転がってしまった。
先生のあんなにまっすぐに伝えてくれた希望なんてすっかり忘れていたよ。
ごめんね、タシロ先生。
でもこうやってnoteに書き殴っているものを文章と呼べるものなら、きっと先生も喜んでくれるかな。
これが私の本です。
書いてますよ、タシロ先生。
そして、生きてます。
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