10歳年下の中学生に学んだ「凹む姿」の美しさ。

とある中学生の中間テスト

僕は週に1度の金曜日に家庭教師をやっている。

相手は自分よりも10歳年下の中学生。
サッカー大好き少年で、毎週会う度にサッカーの話をしている。

最初、彼は勉強なんてやる気など1ミリもなかった。活発な彼はどう見ても家の中で大学生と勉強するよりも、外でサッカーする方が合っている。自分も野球ばかりしていた。彼の気持ちはよく分かる。

指導時間の半分がサッカーの話と恋の話。よくある男子生徒の会話だった。楽しいと思いつつも、“家庭教師”ではなく“話し相手の兄ちゃん”になっていた自分に、少し嫌気がさしていた。

さーて、どうやって彼を本気にしようか。

そう思って彼に色々な言葉を掛けるも、
イマイチ効果はない。
毎週金曜日、試行錯誤を繰り返していた。

受験マンガの『ドラゴン桜』にあった名言を借りてきて、声を掛けたこともあった。結果は大失敗。借り物の言葉で動かせるほど、人の心は軽いモンではないらしい。

だが、家庭教師に入って第3週目、中間テストに向けての勉強をする様になると目の色が変わり始める。キラキラした目で僕の話を聞くようになった。

気付けばサッカーと恋愛の話をするのは10分にも満たなくなっていた。“集中出来る時間”が飛躍的に伸びている。きっかけが何かは分からないが、今まで出来なかったことが出来る様になることの楽しさに気付いてしまったみたいだ。

そして、中間テストの翌日。

成功の報告を聞けると確信していた僕は、
テストで大失敗してしまった彼の姿を見ることになる。

僕自身、いけると思っていた。
僕が悔しかった。

その日、彼はサッカーの話も恋の話もせずに、一心不乱に派手にコケた数学のテスト問題の解き直しを行った。その姿はとても素晴らしく、純粋無垢に懸命にシャーペンを動かす姿に心を打たれた。

こう言っては何だが、彼は失敗して良かった。
今までテストの結果が悪ければ、「ノー勉だしwww」「一夜漬けだしwww」と言っていたはずだ。失敗して凹むだけの努力をしていない。

僕はその姿を見て、「次の期末テストは絶対成功しよう」と心に決めた。

指導後に彼のお父さんと話した。

「息子さん、今までテスト後に凹んでたことありますか?」
「ないですね」
「そうだと思います。今回はどう思われますか?」
「かなり凹んでいます。」
「そうなんです。今までやってなかったテスト勉強を初めて本気でやって失敗して、サッカーで負けた時の様に悔しがっています。まだ点数には表れていませんが、期末テストでは絶対に伸びます。」

気付いたら10歳年下の彼に感情移入する自分がいた。
僕も、一生懸命にやっていたのだろう。
「仕事だし~」なんて気持ちでやっていたら、こんな気持ちにはならなかった。いや、「なれなかった」と言った方がいいかもしれない。

次のテストは1月。
そこまでに何が何でも成果を出そうと思ったのでした。
ちゃんちゃん。

一喜一憂しろよ

そういえば受験にはこんな格言がある。

「模試の結果に一喜一憂するな」

ハッキリ言う。これは嘘だ。

自分の努力が結果に結びつかなくて、一喜一憂しないでいられるはずがない。悔しいという気持ちにならないのは、全力でやってなかった時だ。だから、「悔しい」という気持ちになること自体が、本来は尊いことだと思う。

そういえば誰かが就活の話で「面接なんて数打ちゃ当たる」と言っていた。僕は真剣に就活をしていないから明言出来ないが、これも嘘だと思う。自分の入りたいと思っていた会社に、対面での面接後に祈られて、一喜一憂せずにいられるか。

しかし、人生23年間やっていると、悔しいという気持ちを前面に出すことに抵抗を覚えるようになる。どんな時も感情を一定に保ち、クールに振る舞うのが格好良いと思えてくる。気付けば挑戦そのものが億劫に思われ、失敗に対し恐怖心を持つようになる。

貪欲に挑戦することを避け、
前に進む人に後ろ指を指す様になる。

正直、自分もそうなりかけていた。

だが、まるでサッカーの試合に負けたときのように悔しさをあらわにする10歳年下の彼の姿は、プライドだけが高くなった僕の心に火を点けた。

もっと悔しさを全開に出そう。
もっと失敗に一喜一憂しよう。
もっと新しい挑戦に貪欲に取り組もう。

そう思わせてくれた10歳年下の僕の“先生”に感謝して、今後は”時給1万円レベルの指導”をしようと決意した。どうやら家庭教師というバイトは、教えることよりも、教わることの方が多いらしい。

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