エッセイ:1日目 - 「日常というささやかな奇跡」
33歳、日本在住、既婚。肩書きを並べると、どこにでもいる平凡な男性だと思う。特に華々しい仕事をしているわけでもなく、家庭もいわゆる普通の家庭。車で会社に通い、夕方には家に戻る。こうした日々が「当たり前」だとしたら、自分はその「当たり前」の中で生きているのだろう。
けれど、日々の中には小さな奇跡が隠れていると感じる瞬間がある。例えば、今朝のこと。朝食のテーブルで妻が「今日は天気がいいね」と何気なく言った。その言葉には特に深い意味はない。だけど、食パンをかじりながらその言葉を聞いた瞬間、なぜか心がふっと軽くなった。天気の話なんて普段なら聞き流してしまうのに、今朝は違った。きっと、妻が微笑みながら言ったからだろう。その何気ない一言が、単調に思えた朝を少しだけ特別なものにしてくれた。
車に乗り込んでエンジンをかける。住宅街を抜け、いつもの道を走る。信号待ちの間、隣の車の中を見ると、小学生くらいの男の子が後部座席で母親と何かを楽しそうに話していた。その様子をちらっと見ただけなのに、自分が子どもだった頃の記憶がふいによみがえる。後部座席から見た景色、運転席に座る親の横顔。子どもにとって、親が運転する車の中って、ちょっとした安心感の象徴だった気がする。大人になってみると、あの頃の安心感を支えていたのが日々の苦労の積み重ねだったんだと気づく。でも、気づいたところで、子ども時代にはもう戻れない。それが少しだけ寂しい。
会社に着き、いつもの駐車スペースに車を止める。事務所に入ると、同僚が「おはようございます」と声をかけてくれる。その何気ない挨拶を返しながら、頭の片隅で「こんな日常がずっと続けばいいな」と思う。仕事は忙しいが、同僚たちと交わす雑談が心の余白を作ってくれる。今日は昼休みに「最近、何か新しい趣味を見つけたいんだけどさ」と同僚が話してきた。彼の言葉に共感する自分がいた。30代半ばになると、何か新しいことに挑戦したくなる衝動が湧いてくる。でも同時に、「そんな時間あるのか?」という現実的な考えも頭をよぎる。それでも、何かを探してみたいという気持ちだけは捨てずにいたいと思った。
夕方、仕事を終えて帰り道に車を走らせる。赤信号で止まるたびに、ふと今日一日を振り返る。「大したことは何もしていない」と言えばそれまでだ。けれど、妻の言葉や信号待ちで見かけた家族の様子、同僚との雑談。そういう一つひとつが、確かに自分を支えている気がする。
家に着くと、リビングからカレーの匂いが漂ってきた。「おかえり」と出迎える妻の声。靴を脱ぎながら「ただいま」と返す瞬間、胸の中にある種の満足感がじんわりと広がる。この何気ない日々が、実はとても貴重なのかもしれないと感じる。いつかこうした日常が変わるときが来るだろう。そのとき、この普通の一日が懐かしく思い出されるのかもしれない。
明日もまた、こうしたささやかな奇跡を見つけながら生きていきたい。たとえそれがどんなに些細なものであっても、そこに人生の意味が隠れている気がするからだ。