第一章の4 角界の躓き(つまづき)5.不可侵な角界
4.角界のつまづき
部屋の拡大と協会での地位向上のために邁進してきた六角にとって、2007年からの立て続けに起こった不祥事は、その当時は正直に言って「ワケのわからない迷惑な出来事」でしか無かった。
週刊誌にスッパ抜かれた八百長疑惑の方は、相撲に関わる人間にとっては「何をいまさら」と一笑に付される程度のことで、誰も気にも止めていなかった。
その後に起こった、新弟子が稽古中に亡くなったという話も、六角の耳に最初に伝わった時は、その部屋の親方Tが協会に報告していた「素行の悪い弟子を仕置きのために兄弟子たちが少し可愛がったら、稽古の後に心臓発作を起こして亡くなった」という話を鵜呑みにしていた。
疑いもしなかったのは、今までも可愛がりで多少怪我をすることは、荒っぽい部屋ではよく聞く話であり、他の部屋、他の一門の話に首を突っ込まないのは角界では常識だったからだ。
正式発表も、搬送された病院からは「急性心不全」、所轄署も「虚血性心疾患」となっていたから、協会でも問題になっていなかった。
親方同士の世間話として、少し話題に登ったのは、当の親方Tが言っていた弟子の素行の悪さだった。不幸にも死亡した新弟子は、稽古に耐えられないだけでなく「マリファナを使っていたらしい」と暗に親方Tは吹聴してまわっていた。
このことから、角界でこの話は「特殊な個人の問題」となった。
「亡くなってしまったことは気の毒だが、うちの部屋の子達とは縁遠い話」だったのだ。
一般社会なら、同じシチュエーションに対し、そんな他人事でいられるだろうか。
組織の中であずかっている協会員(社員)が稽古中(業務中)に亡くなったら、管理部門の人間でなくとも、まず労災の二文字が浮かぶだろう。たとえ不運な事故であったにせよ、業務中なら管理責任がどのくらいあるのかどうか、ヒヤヒヤものの事例のはずだ。
しかし角界というところは、世間と自分たちの意識や価値観にズレがあることに気づかずに、また気づいたとしても、自分がその価値観に合わせる必要なく暮らしていける不思議な世界だった。
それが良いか、悪いかは兎も角として、なぜ彼らがそんな風なのか。どこをどうすれば、同じ21世紀の日本に生きる人として、存在していたのか。
まず、知るところから始めるしかないのではないだろうか。
自己資金があって、長く続いている組織や、団体にありがちな傾向として、同じ価値観の人間が自分たちのルールだけで生活していくと、そもそも外の世界の変化や、ルールに鈍感だということがある。理由は知らなくても生きていけるからだ。
角界はまさにそれだった
5.不可侵な角界
男芸者、という言葉を若い方はご存じないだろうか。
相撲取りのことである。
節分や、成功した人間の式典やパーティなどを思い出してほしい。
華やかなハレの席には人気有名人や、祇園の綺麗どころ、そして髷と大きな身体が特徴の相撲取りが欠かせないのだ。
昔から、いわゆる有力者、成功者と呼ばれる人物が求めるのは金、地位、最後に名誉だと言われている。
もちろん、知らず知らずの内に、これを順番に関係なく手に入れていく本物の大人物も人知れず数多く存在する。なぜ「人知れず」か、というと、そういう人は「我が我が」と宣伝しないものだからだ。
ただ、ぽっと出の成功者や、ニセモノの人達は、自分の力を誇示するために、すごい人や有名な人の名前を利用することを考えることがある。「あの人が言うなら(知り合いなら)、凄い人なのかも知れない」という大衆心理を利用するためだ。
もちろん、みんながみんな、という訳ではないが、そういう時に狙われ易いのが、花柳界、芸能界、角界なのである。
花柳界は正直、人を見る目が厳しいので逆に手玉に取られる。
芸能界も最近は事務所がとても神経過敏になっている。
と、すると一番世間知らずで、いろいろな意味で緩いのが角界となり「お金持ちになったら、まず男芸者イコール力士を宴席に呼ぶことは出来る」という話になるのだ。
本当の意味で、相撲を愛し応援しているタニマチも居ることは確かだが、いまの時代に一人や二人大手スポンサーが居るだけでは部屋の運営はやっていけない。
注)実際、その運営がやっていけない事自体も、組織上の問題があることなのだが、相撲協会が気づいていないことなので、敢えて取り上げないでおく。
話を本題に戻すと、外の人間から見たら角界は本当に別世界、逆を言えば世間知らずの集まりなのだ。
15から相撲の世界に入って寝食を共にしながら相撲のことだけに邁進している、力士や裏方たち。
そして、その力士がそのまま兄弟子になり、親方になり、協会の運営に携わるようになってからも、外の価値観やルールを学ぶ必要はあまり発生しない。
たまに買い物などで表に出ても、周囲は髷と体格を見るだけで「相撲取りか」と解ってくれて「なんでそんなことも知らないのか!」などと叱られることはない。
そして、関わる人の殆どが、取り組みを見てファンになった贔屓衆などだから「そんなこと俺がやってやるよ、相撲だけ頑張ってくれればいいよ」と雑用を買って出てくれる。
つまり「中卒(昔はほとんどそうだった)の自分たちは、相撲以外のことは解らないから「餅は餅屋」で代わりにやってくれる人達、面倒見てくれる人達に任せ(考えようともしない)番付を上げることだけに専念する」といった考え方や慣習が脈々と受け継がれているのだ。
そしてその慣習は上に従順で支援者を大切にする姿勢は、人気商売として可愛がられる昔ながらの「ごっつぁん体質」を作っていく。
それは出世して力士として一人前になり、いざ結婚して新生活で独立、となった時ですら続く。全ての仕切りは部屋の女将さんや、贔屓衆が面倒を見てくれるからだ。
だから彼らにとって、世の中のルールや価値観は、世の中の人のものであって、自分は相撲取りとして「角界でどれだけは出世できるか」「出来ないなら、どれだけ支援者を増やせるか」が一番大切になってくるのだ。
こんな力士は、前述したようなパーティーに力士を呼びたい「大人物」たちに取っては、恰好の餌食となる。
相撲に詳しい人には釈迦に説法だろうが、相撲取りが出世して十両に上がると「化粧廻し」というものを付ける。若手の時からの注目力士ともなると、新十両のお披露目の場所でも、毎日のように違う化粧廻しを付けるのだ。
それは人気の現れであり、タニマチの多さ、支援者の多さを意味する。スポンサーすらすれば、化粧廻しに会社名や団体名を入れることで、どんな田舎の町にでも放送されるNHKで「この力士を俺が応援してやっているんだ」という大宣伝が出来るだけでなく、自分のパーティーや式典に、その注目力士が来てくれて、顔を立ててくれる名誉になるからだ。
一方、力士や部屋に取ってもメリットが大きい。
タニマチが競って化粧廻しを作りたがるような、そんな人気力士を部屋から排出することは、親方に取っては、大ヒット商品を生むのと同じことなのだ。
そして忘れてはならないのが、誰が言うともなく「相撲は伝統ある神事であり、日本の国技(自称)として保存、継承していくものだ」とされていることである。
わざわざ自称、という文字を入れたのは、日本の公式発表として「相撲が国技」として定められことや、発表されたことがないからである。とはいえ「スポーツとして日本古来行われていることは確かだし、髷も未だに結っているし、国技みたいなものかもなぁ」と空気を読むのが得意な日本人は、それを受け入れて来た。
特に自分の生活に害が及ばない限り、そんな世界があっても良いんじゃない?
日本はファンタジーの国なんだし。
その証拠に神社などで行われる儀式の時は、力士を神様の遣いとして大切に扱われているし。
相撲そのものが好きではない人までもが、そんな風に角界を特別なものとして、そっとしておいた。
有力者やタニマチに守られ、その上に神事や国技という神秘的な言葉に守られて、角界は不可侵なまま存続出来る特別な世界だった。
だから角界の中には一般人や世間には触れることの出来ない暗黙の了解、タブーが許される。
角界の人間たちも、そう思っていたのだ。
特別な自分たちの特別な世界に、外のモノサシを突っ込んでくるのは常識のないバカだから無視すればいい、と。
でなければ、90年初頭に「暴対法」が施行されているにも関わらず、国営放送で全国放送される砂かぶり席に暴力団幹部を座らせる、といった不届き、かつオッチョコチョイな行いを平気で出来るわけが無かったのである。
つづく