【三題噺】上京物語

お題: 街、印鑑、クレープ

俺にどうしろと言うのだ?

新宿駅西口の改札の前で、今田は途方にくれていた。右手にはチョコバナナのクレープを、左手には象牙を彫った印鑑を持っている。
今田は大柄で、スーツを着ると堅気に見えなくなるという特殊技能持ちである。
そんな男がクレープを持って立ち尽くしているのだから、嫌でも目立つ。

街を行く人々の大半は無関心なのだが、たまに今田の姿に唖然としたり、くすくすとわらう人を見かけると軽く怒りが湧いてくる。

「俺はこれから仕事なんだが」

可愛い女性から「これを持っていてください」とクレープを手渡されてしまったのがいけなかった。
そのあと通りかかったおばあさんは印鑑を落とすし、拾ったのはいいがあっという間に人波に飲み込まれてしまって、行方もわからない。今田は静岡の支店から新宿へ出張に来たので、まるで土地勘がない。
そんな訳で小一時間ほど、立ち尽くしていたのだった。

それにしてもここは人波が途切れる事がない。
これだけの人間がどこから来るんだと思わずにはいられない。しかもみんな迷うことなくあちこちへと散っていくではないか。静岡とは全然違う。なんともせわしない街だと今田は思った。
クレープはともかく、印鑑は無くては困るだろう。せめて交番に届けたいが……。

「あなた、そこのあなた!」

背中までウェーブのかかった髪をなびかせ黒いレースがたっぷりかかったロングスカートをはいた中高年女性が近づいて来た。ひと言で言えば「怪しい」

「その印鑑は不幸を呼ぶ。すぐに捨ててしまいなさい!」
「これは拾っただけです。今から交番に……」
「捨ててしまいなさい!」
と言うや否や今田の左手からひったくり、アスファルトに叩きつけた。多少ヒビが入っただけの印鑑を、女性は踏みつけていく。何度も、何度も。そして何度目かの踏みつけによって乾いた音と共に割れた。
大層乱れた息づかいをしつつも、女性は今田に向かって「ドヤ顏」をして去っていった。去り際に「交番はここから右側にまっすぐ行けばあるわよ」と言い残して。

「出来れば壊す前に言ってくれよ」

今田はため息をついた。すると携帯電話が鳴り出したので、空いた左手で着信ボタンを押した。
「もしもし、今田です」
「あ、静岡支店の今田さんですか?本店の者ですが」
「申し訳ありません、新宿までは着いているのですが……道に迷いまして」
「いえ、とんでもない。こちらこそ早くお知らせしなくてはいけなかったのですが」
「……何の事でしょうか」
「担当者が急病で休みになってしまいまして。今日の面談は延期にしていただきたいのです」
「そうなんですか?!」
「先方にもお話をしたのですが、今田さんはすでに向かっていると聞きまして、本当に申し訳ありません!」
「こちらこそ、わざわざお電話をいただいて」電話の相手は何度も何度も詫び言を言ってから電話を切った。すると、また着信が鳴る。今度は上司からだ。
「今田、本店から電話がきたな」
「はい。面談は延期、と。今から戻りますが」
「いい、今日は出張扱いにしておくから、ゆっくりしてけ」
「ですが……」
「土産は東京ばな奈でいいからな」
つまり、買ってこいという事らしい。
分かりました、と言って今田は通話を切った。
さっきの胡散臭い中高年女性の言葉を素直に信じた今田は、歩き出した。
すると、ものの1分で交番を発見した。
「すみません」
巡査がいきなり身構えたのがわかった。
「これ……落し物です」
今田は破片まで丁寧に拾い、ハンカチで包んだ印鑑を取り出した。
「割れてるじゃないか、壊したのか?」
「いえ、不注意で……すみません」
どうせ言っても信じてもらえないだろうと思ったので、多くは語らなかった。
「ん?この苗字はさっき来た老婆と同じだな。息子にお金が必要だから、印鑑がないと下ろせないと泣いていたが……」
「それで?」
「ここの電話を貸してあげて、息子さんに電話をかけたんだ。そうしたら詐欺だと分かってね。たった今、息子さんと一緒に帰ったところだよ。もう一度連絡してみるか」
「そうでしたか、お願いします」
「ご協力、ありがとうございました」
生真面目な巡査は、直立不動で敬礼をして今田を送り出してくれた。

今田は改札まで戻ってきた。
まだクレープを手に持っている。さすがに温まってしまった気がするが、生憎甘いものは苦手なので、食べるという発想がなかった。
「あ、さっきの人!」
指を指された今田はぎょっとした。
「本当にクレープを持っててくれたんですね!」
と笑っている。いや、君が頼んだじゃないかという言葉を今田は飲み込む。それ以上は無粋だと思った。
「ありがとうございました!ちょっとそこで友達を見かけたのでつい……その子、クレープが好きなんだけど、小麦粉のアレルギーが出ちゃって食べられないんです。だから、持っていたら悪いと思って……」
女の子は頭を下げた。
「もしよかったらぜひ、お礼をさせてください」
「それじゃあ……東京ばな奈が売っている所を教えてください」
頭を下げた今田に対し、女の子は笑顔で「お安い御用です!」と言った。

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