OHHKI "IMPRESSION"を語る1
蒼い水が印象派絵画のように水流を描き、または夜の気配と糸杉の波打つ筆跡は
リヴァーブ、ディレイを彷彿とさせ、ただ光と闇があり、風が吹いている。
なるべく聞き流せられるような、流れ聞き出来るような、あまり注意を惹かない言葉として英語詩を。それは日本語という母語の生活圏に囲まれて、その言葉の重さから一度解放されたかったという思いがある。
一方、歌は国境を越えて響くものだ。エスペラント語よりも幅広く、良くも悪くも世界に広がっている言語が英語だ。
それと英語詩の中にいきなりポッと日本語が出てきたら、いい。あれはいいと思う。
私は、特に、誰かに伝えたいことって無い、とずっと思ってきた。音と雰囲気しか考えていなかったような気がする。
池の周りに生えている植物や生き物を観察しているような、蜘蛛の糸が陽の光に反射して綺麗だな、みたいな、そういう時間があれば、それでいいと。しかしどうやら、それらを誰かと共有したい、同じ風景を見て一緒に感動したいと本当は思っていたようだ。異世界の宇宙人が美しいと思うものを切り取って、他の星の誰かに伝えようとしているような、そんな感じですか。美意識なんて人それぞれだから、伝わる人と伝わらない人がいると思うけれども。
しかし、もはや業のごとく死ぬまで繰り返していくしかないのかもしれない。
音楽を創る上で意識しているのは、それは海外でも通用するのかといつも自問している。聴いてきた音楽は当たり前に国境を超えてあらゆる世界で聞かれている。(もちろん偏りはある。)だから音楽は世界へ向けて鳴らされるものだと思い込んでいる。本当は言葉も関係ない。容易に超えられる。音楽だけでなく芸術みたいなものにはその力があるって知っている。
だけどそれで何をしたいのだろうか。
名誉やお金や成功と言われるものが得たいのではなく、やることだけ、やり続けることが真理のような気もする。偽らずに。
目の前に山があるから、登ってしまう。頂上へ行って、降りて、また登って。
それの繰り返しだ。その途中で死んだらそれが本望だ。
歳を取るにつれて、いろんなことを忘れていってしまう。十代の頃のセンシティヴな感性や社会に対する漠然とした不安や生き辛さ、そういったものがどんどん落ちていってしまう。もう、ほら、あれはなんだっけとか直ぐに名称も出て来なくなって、どんどん無くなっていく。過去が無くなって、そうして今しかない。今でしかない。今、とても良い状態なんじゃないだろうか?
幸い歌は泉のようにこんこんと湧いて出てくるので、それを両の手で受け取っている。または、空に向けたアンテナのようだ。
私は善い人間ではない、心には悪魔も住んでいる。しかし大体上手く駆け引きしながら生きている。音楽をするときには一緒に手を繋いでいる。もう善悪とかそういうことではないような、それを超えた場所へいきたい。
さーて次回の大木さんは、OHHKI ”IMPRESSION”を語る2
です。