欠点と良い所だけを見ることについて
昔、私は人の悪いところに注目していた過去がありました。あの人はここが良くない。その人はそれが悪い。だから恐い。グルグル。……苦しい。と。
今思えば、注目する所が欠点ばかりだったのだな、と思います。それって、自分で勝手に苦しんでいたのかも、なんて。
欠点があるのは世界中の全員です。欠点があることをマルっと前提としてみる。それでいて、良い所に注目する。
という順番は良いかもしれません。
悪い所を見ないように見ないように、と思って良い所だけを見るわけでなくて。
悪い所はあるよね、でも私は良い所に注目するよ。という視点です。
それは自分自身にも言えることかもしれません。たとえば、『ネガティブとポジティブ』。どちらが良い悪いではないですが、わかりやすい例としてあげます。
ネガティブがあるのは当たり前です。ネガティブも、それをマルっと前提としてみる。それでいて、自分の心地よい方に注目する
という順番は良いかもしれません。
ネガティブがいやだからポジティブだけを見るのではなく。
ネガティブもポジティブもあるよね、でも私は今ポジティブ(あるいはネガティブ)の方が心地よいから、そちらから考えますね。という視点です。
自然に思考を勝手に白や黒へ持っていかれて盲信してしまうのではなくて。
全体の陰陽のようなものを包みこみつつ、自分で注目するところを選ぶ感覚でしょうか。
さてはて、そうするとどうなるか。
欠点を見ないように見ないようにして良い所だけを見る場合、どうしても見えてしまう欠点が嫌になる。もしくは嫌になる自分を嫌になる。
これでは、良い所を見ることについて無理矢理感もありますし、確実にある欠点に出会った場合に破綻する、という限界があります。
欠点はあるものとしてかつ良い所に注目をする場合。たとえ欠点が見えたとしても、あるとはじめから思っているので、裏切られた感覚はありません。
なので、それで苦しい気持ちになることは減ったり薄らいだりするような気がします。
だれにも欠点はある。私にもあるし、相手にもある。欠点も良い所もどちらも、全体的に内包しつつ、ではさらによりよい状態へともっていくために動いていくには。
と、思考を巡らせたいです。
ところで私の良い所は、いやなことを忘れっぽい所にあると思っています。欠点は、よいことも忘れっぽい所にあると思っています。
さらによりよい状態へともっていくためには、……何の話でしたっけ? 忘れてしまいました。
PS、真ん中を見るのもいいかも。