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言語の力
私には2人の姉がいるのだが、そのうち歳が近い方の姉は我が家で唯一の芸術家肌であり、感情のままに絵を描いたり写真を撮ったりする。その姉が、何かを考えるときに言語情報ではなく映像が浮かぶなどと言うものだから、私の認識の仕方はどうなのだろうかと考えてみた。
このように書き始めている時点で私の認識が言語で成り立っているというオチは明らかだろうが、少し真面目に考えてみることにする。
私は言語というものの価値を割と重く見ている。ここでいう言語は、文字情報や音声情報に限られたものではなく、言語というその概念を指している。少なくとも、私たちが認識可能な対象のうち、このような言語で説明ができないものは存在しない。名前のない得体の知れない何かは、「名前のない得体の知れない何か」として言語化が可能であり、言語化し得ない何かも「言語化し得ない何か」とした言語化できる。しかし、認識できない何かは「認識できない何か」とした途端に「認識できない何か」として認識可能であることとなってしまうから、その限りにおいて真に認識不可能なものを言語化することはできないように思う。
たとえば、今目の前に1本のスプーンがあるとする。では、「スプーン」や「ある」がそれぞれ存在しないとき、そのスプーンは本当にあるのだろうか。言語として概念化することが不可能な場合、そこにあるスプーンは認識不可能な領域を脱し得ず、「そこにあるスプーン」たり得ないのである。
そうすると言語が存在しない世界では、あらゆるモノやコトが真に認識不可能な領域にとどまり続け、その限りにおいて無であるということになる(もっとも、「無」すら言語化できる以上、認識可能であるから、この表現も適切ではない。)。
そうだとすると、言語があって初めて世界は認識可能となるのであり、世界は世界たりうることとなるのであろう。
もっとも、それと、現実に何かが存在するか否かは別に考えられることだろうし、別に考えるべきことであろう。認識不可能でもそこに何かがある可能性は否定されないからである。
ところが、そこになにかがあるかないかは、「ある」や「ない」という概念が存在することが前提であって、そのような概念を置くこともできないとき、すなわち言語が存在しないときには、もはやそこになにかがあるかないかすらも捉えることができないのである。
そう考えてくると、あらゆるモノやコトには先立って言語が存在しなければならないように思える。これは半ば自己矛盾でのようにも思え、言語があるには「ある」の概念が必要であるから、それには言語が必要ということになる。その意味で無限の議論のようにも思えるが、言語が生まれると同時に「ある」が概念化できるようになるのであるから、まず言語があるとすればその無限は解消されるのである。
私は、こんなばかりに、言語が最も根源的なものとして位置付けられると捉えているのだが、実は、その考えの中にも解消しきれないいくつかの疑問、矛盾を抱えている。
たとえば、私のこの考え方に反論しようと思う者がいたとすると、およそその者は反論にあたって言語を用いることになろうから、私はそれに対して、言語を前提にしないとあなたの反論も存在し得ないこととなるから妥当でないと再反論することができる。しかし、これでは議論が明らかに停滞する。人と人とが対話を通じて互いに互いを発展させるという言語活動の基本的な要素が、言語というものを重く捉えるばかりに、後退してしまうのである。このような基本的要素を失った言語に、私が考えているほどの価値を見出すことはできるのだろうか。
また、私の立場は、人間にとっての世界しか見ていないのかもしれない。私の知る限り、生物以外のモノやコトには言語が存在しない。ではそのモノやコトにとっての世界とは何なのであろうか。
言語を根源的な存在として捉える限り、そこでは対人間(あるいは少なくとも言語を持つモノ)との相対的な関係でしか世界を捉えることができず、果たしてそれが真に世界を理解することにつながるのかは疑問である。私の考え方は私が人間であるがゆえの傲慢さの現れなのかもしれない。
ひとまずこれらの疑問は措くとして、現時点でのモヤモヤした到達点としてこの内容を残すこととする。
これらの疑問は積み残しとして、いつかの自分に検討を委ねようと思う。もっとも、私が言語を根源的であると考え、その時々の考えをこのように言語を用いて固定化しようと思う限り、この疑問は解消されないだろうから、このような未来への期待は、するだけ無駄なのであろう。
そしてきっと、私が思いつくくらいの話は、昔のどこかの偉い学者が思いついていることであろうし、ともすると、頭のおかしい意見としてすでに粛清が終えられているかもしれない。それでも良いから、ただ自分の考え方や思うことをどこかに固定化しておきたかったのである。