だれがせんたくしたのか
こうしよう ああしようと
考えている頃にはそれはとっくに終わっていて
ただ観察だけが後ろをついて回っている。
たとえば洗濯物を干す。
カゴに詰まれた洗濯物の中から、どれを最初に手に取るか?決めているのは自分じゃない。気付いたら一枚、もう手に持っている。
ハンガーを取る。Tシャツをかける。洗濯バサミを親指と人差し指でつまむ。開く。間に靴下をはさむ。次の一枚。次の一枚。
さてそういえば、洗濯物をカゴに詰んだのは。
すべて行動が先にある。
なぜこれを手に取ったのか?これが一枚目である理由は?これを選択した理由は?
( 洗濯だけに )
結果を観察してはじめて理由が生まれる。
それまで理由は沈黙している。
しかしいつでも、そう迫られたらいつでも、饒舌に弁明する用意がある。その行動は自分が牽引したものだと、そうやってこの人を騙すには十分な説得力の弁明が、いつでも後ろに控えている。理由の在処を照らすと、それはずっと前からそこにいたような顔をして行動の一歩前に立っている。
しかし静かに。つぶさに。
自分の行動のひとつ、ひとつを追ってみると
明らかに理由を追い越している何かに、気が付くときがある。
多くは日常に染みついた行動。
やはり洗濯。もしくは掃除。風呂だったり。
着替え。食事。演奏。歩行。呼吸。思考。
今だって。
こうしてタイプする指を追ってみる。
とても自分のものとは思えない。
これは本当に、自分の意思なんかとは全然無関係のところで起こっている、何か。
たとえば考えがある。
それを文字にするためにキーを打つ。
じゃあ「あ」と打とう。「あ」と打つには「A」のキーを一回叩く必要がある。左手薬指がその役を担う。それをAの上に置いた。ではそれを動かすための筋肉を収縮させる。Aの上に置いたそれをわずか1ミリ下に沈ませて、すぐ離す。
あ
これを一瞬の間に。
いや。一瞬と、そう呼ぶには長すぎる時間のうちにやってのけている。いやまさか!やっている自覚もない。気付いたらもう終わっている。
この、この人は。
結果を観察することしかできない。観察してはじめて理由がうまれる。理由を見つけて、そうか良かった。やっぱりこれは自分の起こした行動に違いなかったんだと、この人はそうやって安心している。そうでもしないとこれは一体なんなのか。説明不能の恐怖がある。
行動しているのは誰なのかということ。
自分?
それだけは絶対にない。