あれから一年。| 令和6年能登半島地震
あけましておめでとうございます。
高校生の時ぶりに、昨年再び始めたnote、さまざまな方に読んでいただけているようで嬉しく思います。
私が考えていること感じたことをその時の私なりの表現で書き記していきたいなと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、令和6年能登半島地震から1年が経ちました。
金沢に住んでいる私は、命に関わるような被害を受けてはいません。が、それは印象的な出来事であり、忘れたくても忘れられない出来事であるため、ここに吐露したいと思います。
書くことを決めた理由はこちら(なぜ、このnoteを書くのか。)をご覧ください。
写真はないですし、長文になります。
ちなみに今回の見出し画像は輪島の朝市です。
能登ほんまにいいとこで大好きなので、変に遠慮せず #今行ける能登 に行ってほしいです。
※ご気分を害されるようなことは書かないつもりですが、しんどくなりそうだったらこの文章から離れてくださいね。
あの日、私は何をしていたのか。
まずは、事実の記述に重点を置き、気持ち面は少なめで書きます。
ちなみに・・・
大学の友達は、成人式間近ということもあって金沢を離れて帰省している人がほとんどでした。
しかもこの時期、大雪やコロナ罹患などでほとんど大学に足を運んでおらず、友達と顔を合わせていなかったんですよね。常に連絡を取り合うような友達もいなかったわけです。
2024年1月1日(月・祝)
帰省もせず、明け方まで下宿先の大掃除をして迎えた新年。
お昼くらいから2人で初詣に行きました。
2023年は、友達数人で神社まで歩いて向かい、カウントダウンをして年越しを迎えましたが、2024年は能登方面へ初詣ドライブだったわけです。
明け方4時すぎまで大掃除をしていたから、もうとんでもなく眠たくって、助手席で「絶対寝えへんから!」とか豪語していたくせに爆睡したのを覚えています。(寝てへんって言い張ったけど笑)
そんなこんなで15時くらいに解散しました。もう少し一緒にいる案もあったけど、もう眠たすぎて早くベッドで寝たかったんですよ(失礼)。
そして帰宅。就寝。
異変を感じたのは、16時過ぎ。ごとごと地面が揺れる音がどんどん近づいてきて、体がゆすぶられているのに気づいて目が覚めました。
目を開けると、ごとごとがたがた音が鳴っていてベッドの上から動けませんでした。
スマホからけたたましい音が鳴り響いて、急いでテレビをつけて。
アナウンサーの人が叫んでいました。「津波が来る。日本海側は早い。」と。
揺れの中、倒れてきそうなテレビを抑えながら情報を得ました。
親から電話がかかってきて、こちらが揺れ続けていることを伝えると、「こっちも揺れはじめた。」と。波の伝播を感じました。
大掃除の際につっぱりの固定を固く締めたこともあって何も倒れては来ず、冷蔵庫が30cmほど前進、オーブントースターが落下し足を一本損傷、飾っていた花束が落下、くらいの軽被害で済みました。
揺れに気づいてから揺れが収まって次の行動(避難経路確保)を起こすまでの記憶はあいまいです。普段静かな独り暮らしの部屋が大きな音に包まれて、頼れる人もすぐ近くにいなくて、「悪い夢でも見ているのだ」と、ただ茫然としていました。
気持ち面と合わせてエピソードを一つ(二つ?)。
地震にどう向き合ったのか。
被災から遡ること1か月。私は防災・減災の授業を履修していました。
そこでした、次の二つのことがこの被災に深みを与えたと思います。
①DIGもどき(災害発生時の自分の動きやまちの動きをシミュレーション)
②七尾市民を津波から救う、現地実習
①DIGもどき(災害発生時の自分の動きやまちの動きをシミュレーション)
DIG(災害図上訓練)って知ってますか?
図を用いたものではないので正式にはDIGではないのですが、設定されたシナリオの中で、
自分が住んでいるところは、どんな災害の危険性があるのか
災害発生後、まちの様子はどう変化していくのか
災害発生後、自分はどのような行動をとるのか
などをできる限り具体的に想定しました。
シナリオ
このシナリオとハザードマップ、地図などから導き出したこと。
ほとんどがあっている。正月だったので、近隣の飲食t年も休みのところが多く火災も起こらなかった。
引っ越した時に、地震が起きても自分の上に倒れてこないように配置を工夫したかいがあった。
地震発生~3分
調理以外はあっている。机の下にもぐる暇などなかった。ベッドから動けなかった。
~30分
ガスの元栓を閉め、避難に必要なものなどをカバンにまとめた。
風呂に水をためた。あったかい服を着た。
窓は寒くて開けられなかった。
友達はいなかった。玄関から誰かわからない声は聞こえた。
火は上がらなかった。交通網は止まった。
~3時間
検討して避難はしなかった。すぐ避難できるようにはした。
~24時間
避難はしていない。
眠れなかった。
ずっと揺れている気がして、コップに入った水が揺れていないことを確認しても目が冴えて冴えて。
~72時間(3日)
翌日、アルバイトの予定があった。バスも電車も止まってた。
朝7時から歩いて向かった。
壁は剥がれ、ガラスは割れ、絵画は割れ、天井から柱のくずがたくさん落ちていた。
他店舗からも片付けの手伝いに人が来てくれて、昼から通常営業した。
お客さんなんて誰も来ないだろうと思ったけれど、帰れなくなった観光客などが意外と来た。
水が止まって富山まで水をもらいに行っただとか、避難所から来ただとかみんな困難な状況に置かれながらも、気心の知れた人と苦労を分かち合えることに少し安心していた。
~1週間
お金は年末におろしていて助かった。
スーパーは被害がひどかったようで営業再開に数日を要した。
幸い、年末に買い込んでいたり、大量の餅があったりでなんとかなった。
寝れない日が何日も続いて、楽しみにしていた正月特番もたくさんなくなって、テレビをつけても行方不明者の情報だとか避難所の情報だとかで青い枠がほとんどを占めていたので気が滅入ってしまった。
実家になんて帰らないと決め込んでいたけれど、おばあちゃんの家に1週間ほど行くことにした。
テレビの画面が大きかった。
青い画面なんてニュースの時くらいしか表示されていなかった。
②七尾市民を津波から救う、現地実習
地震発生時に津波に被害も予想されていた石川県七尾市。
そこに住む住民や食祭市場などを訪れる観光客などを避難誘導するにはどのようなハザードマップが適切なのか。
現地実習を通したグループワークがあった。
七尾のまちを歩きながら、津波避難ビルや避難経路を見て回ったり地域の人に話を聞いたりした。
身近に感じられて持ち運びやすいことを目的としてクリアファイルにハザードマップを記載したものを作った。
小学生の時に作ったハザードマップの応用であるが、このアイデアがたいそう評価された。
地震が起こって揺れの中で思ったのは、「本当になってしまった」ということだ。
津波の現状を伝えるために七尾市を映したカメラに家から飛び出す人たちが映ったときは心が痛んだ。
無事に避難できることを祈るとともに、自分が学んでいることの社会的意義も感じた。
どんなことを見聞きしたのか。
災害ボランティアに行った。
寝るときもパジャマを着て寝れないとおっしゃっていた。
私たちよりも大変なはずなのに温かいおしぼりをくださった。
思い出のピアノやアルバムも処分せざるを得なくなっていた。
仮置き場に持っていけるものは限られていた。
被災者自身での分別が求められていた。
仏壇を壊した。
ベビーカーを切り刻んだ。
壊していた箪笥から賞状が出てきた。
なぜ、このnoteを書くのか。
一昨日の夜NHKで再放送されていた、2020年の土曜ドラマ『心の傷を癒すということ』を観ました。
阪神・淡路大震災のとき、前例のない中、被災者の心と向き合った精神科医、安克昌さんを主人公としたお話です。
私は阪神・淡路大震災を直接経験した世代ではありませんが心に響く描写や表現がたくさんありました。
あと、ドラマ中の発言のほとんどが関西弁やから、語り掛けがより優しく感じて、感情が大きく揺さぶられました。
(柄本佑さんの演技がすごい。おっとりながらも感情がのっていて。『光る君へ』ですごさを認識しましたが、今回もよかった。)
書き始めながらもずっと寝かしていたこのnoteを、今回書き進めようと思ったのも、このドラマを視聴した影響が大きいです。
永野先生が病床に伏せる安さんにかけた言葉です。元は安さんの言葉ですね。安さんは「でも…、」と言って泣きじゃくります。
思い返せば、第2話に、被災の衝撃をうまく受けとめられていないながらも弱音を吐かない少年と安さんとのこんな会話がありました。
旅先などで、「石川県から来た。」と伝えると、「地震大丈夫だった?」と心配してくださる方々がたくさんいます。(体感ですが、被災経験がある人や被災地域の人にそう言われることが多いように思います。)
そんなときに、
「金沢なので私は全然(大丈夫)。能登のほうは今も大変ですけど。」
って答えてしまうことがほとんどです。
いつも気丈にふるまいながらも、「自分の気持ちを押し込めているなぁ」と感じていました。
「能登の人たちと比べると自分の受けた被害なんて軽いものだから。」
「揺れしか感じていないから。」
そう考えることで、辛かった怖かったという気持ちに蓋をしていました。
今もそうです。
この文章を書きながらも、「大した被害があったわけじゃないし大げさなんじゃないかな」とか思ってます。
そんな考えは一旦置いておいて、個々に吐き出すことで、少し気持ちが軽くなったりだとか自分の本音に向かい合えたりだとかしたらいいなって思います。
怖かった。
今も少しの揺れや大きな音を感じるとあの日を思いだして怖い。
人は忘れてしまうのか。
さっき、心配の声をかけてくれる人がいるって書いたんですけど。
それにちょっと関係するかな。
私は飲食店でアルバイトをしています。
日本酒や食材は能登のものも扱っています。
地震の影響で提供が難しくなった時に、
「元旦の震災の影響で提供が難しくなっておりまして、」
と説明したときのお客さんの反応が変わってきました。
当初は、地震の影響で観光客が減少しお客さんもほとんどいなかったため、お客さんのほうが先に「ここは大丈夫だったんですか?」と声をかけてくださることが多かった。
数か月して、能登を応援したいという思いからなのか、能登の酒や食材を求める人が増えた。説明したら、表情が曇る人が多かった。
このころから外国人の地震の認知度の低さを感じるようになった。
「元旦に石川で地震があって・・・」
というと、初めて知ったという外国人がほとんどになったのだ。
夏を過ぎて、能登と加賀との共同制作の酒だとか漁や加工所再開後の食材だとかが取り扱えるようになったくらい。
そのエピソードを話すと、
「あっ」「そうでした」
みたいな思い出したような反応が日本人でもほとんどになった。
地震は私をどう突き動かすのか。
地震は私の原動力です。
決して変な意味ではなく。
東日本大震災がなければ、中学生の時の自分の心が動くことはなかっただろう。そうすれば自分が向かう先は大きく変わっていただろうし。
大阪北部地震がなければ、普段の備え(物資だけでなく経験や考え)が行動に生きることを実感できなかった。
中学校で合唱コンクールの練習をしているときに揺れを感じて、クラスメイトの一人が叫んだんですよ。
「窓開けろカーテン閉めろ。みんな机の下はいれ。」
って。もちろんみんな頭を守ったり壁から離れたりしていたけれど、その子の発言によって我に返ったように、普段避難訓練の時にしている行動をみんながとったんですよ。
先生もいなかったし、誰に言っても信じてもらえないだろうけどあの日の記憶がすごく残ってます。
現在私は、大学で観光地の災害時対応について研究しています。
これは能登半島地震が起こる前から決めていたテーマだったけれど、より一層意義をもって取り組めている気がします。
どこかで地震が起こるたびに、その土地の人の安全よりも先に自分の研究の行く先を案じてしまう自分がすごく嫌いになるけれど。
間に合ってほしいと思う。
結果や考察が、地震発生よりも先に導かれてほしいと思う。