新庄市城下町旧町名等保存事業 ・その3

17・沖の町(おきのちょう・現在の沖の町):昔、この辺は金沢沖と呼ばれ、一面の田んぼであった。

18・三の堀跡(さんのほりあと・現在の小田島町):三の堀は吉川町から北本町・南本町裏を経て宮内丁に流れ、侍町と町人町を境していた。

19・大正町(たいしょうまち・現在の小田島町):明治四十四年の大火を機に、沖の町を西にのばして、御城までの道路が開かれた。大正時代にできた町というので大正町という。

20・仲町(なかちょう・現在の小田島町):侍町と町人町の間にある町なので仲町と呼んだ。上・中・下の三丁に分かれる。古くは山崎丁・村山丁と呼ばれた。

21・藩校明倫堂跡(はんこうめいりんどうあと・現在の小田島町):新庄藩校明倫堂は昭和年間に創設され、幾多の俊秀を育てた。安政五年(一八五八)この地に移され、明治四年まで続いた。

22・町奉行所跡(まちぶぎょうしょあと・現在の大手町):新庄の城下町の市制や治安をつかさどる役所のあったところ。現在の市役所と警察を合わせたような役所。

23・南本町(みなみほんちょう・現在の本町):南本町はもと五日町といい、羽州街道に沿ってつくられた町人町で、城下で最も賑やかな町であった。ここには参勤交代で江戸に登る大名が泊まる本陣、反物・仏像・筆・墨などを商う豪商が軒を連ねていた。

24・大手口(おおてぐち・現在の本町):町人町、北本町・南本町から新庄城に入る入り口。この口に番所が設けられ、北側に町奉行所がおかれた。大手広丁を通り、二の丸の大手門を経て、本丸に入った。

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