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自己表現としての服作り

服を作る仕事をしていますと言うと、お仕立て屋さんですかとか、どこかで縫製を担当してるんですかと訊かれることがある。
私がやっていることは、自分の内にある言葉にならないなにかを、言葉にすることなく自分にも自分以外の人にも見える触れる形にすること。衣服という形には実はそんなに拘っていない。物作りが好き、手仕事が好き、細かい作業が得意、布や糸が好き、そして日本のもの、となると着物に関わる手仕事を選ぶということになった。

自分では覚えていないが、母の話では3歳から針を持っていたらしい。母が雑巾を縫う横で私は針や握り鋏に触れる機会があった。それを危ないからといって取り上げることなく触れさせてくれた母にはとても感謝している。

本が読めるようになってからは、図書館の手芸コーナーの本が先生だった。地元の図書館では手芸コーナーの本を読み尽くし、お小遣いで道具や材料を買ってはなにかしら作っていた。
そのうちフリーマーケットやイベントに出ないかと声を掛けてもらうことが増え、作ったものを誰かが使ってくれたり着てくれる嬉しさを知った。
今でも販売してお金が入るのが嬉しいというよりは、作った作品が誰かに届いている、知り合いや友人が使ってくれているという嬉しさが圧倒的に大きい。
一方で、自分が作ったという意識はあまりない。この着物は今というタイミングで服になることが決まっていて、服に変化させたのが私だったというだけだ。頭に浮かぶデザインだって自分のものではないし、そうなると「私が作りました!」と言えるものはなにもないのだと知った。
そうしたら気持ちが楽になったし、決まったものをいくつも作り続けることはしなくなったしできなくなった。
だから一点物ばかりで、受注製作は基本しないのだ。

得意なのは、こんなイメージで作ってほしいとか、音楽を聴いたり出逢った景色を服という形にすること。ライブペインティングというのがあるが、それのソーイングバージョン、ライブソーイングをやってみたいと思っている。
それから会ったことがある人におまかせで作らせてもらえるととても嬉しい。色のリクエストがあればその色で作るし、好きな色を教えてもらったり、逆にこんな色似合いそうだねなんて話すのも楽しい。柄や形もそう。
最初にあったその人に対するイメージもどんどん変わっていくから、デザイン画は描いたことがないし、型紙もない。(作りやすい基本の形というのはあるけどね)
この生地はどうなりたいんだろうかと考えたり、その瞬間瞬間に手が動くまま思うままに作る。
こんな私の気ままな服作りが続いているのは、着てくれる人使ってくれる人がいるから。好きなように作って着てもらえて生活がまわっている。こんなにありがたいことはない。
服作りが一生続くか分からないし、未来のことを今から決めても仕方がないので、作りたいときに作るし気が向かなければ別のことをする。いつまで作るか分からないけど、しばらくは続きそうなので楽しんで作りたい。

しばらくお休みしていた服作りを、また明日から再開します。多分。
どんな服ができるかな。
では、おやすみなさい。

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