令和時代のテーマか?「嫌悪感の処理の重要性」
という訳で、平成最後のnoteでございます。
当初はどうでもいい穏やかなグルメ記事でも書いておこうかと思ったのですが、twitterでとある人物が非常に興味深いことを発言しており、色々と思う所があったため、「嫌悪感」 をテーマに1本書こうと思った次第。
知的障がい者の当事者家族という方から、「知的障がい者であるというだけで嫌悪をしないように教育してほしい」という旨のリプライを頂いていますが、私はそれは不可能だし、なされるべきでもないと思います。多様性を認めるということは、嫌悪を抑圧することではないと、私は考えます。
— 青識亜論(せいしきあろん) (@dokuninjin_blue) April 29, 2019
もちろん、他の属性についても同じことですが、障がいの実態を教育的に知らしめ、誤解や偏見を解くことは重要です。しかし、偏見を乗り越えた先にもなお、個人的に好悪の感情が残ることまでを、倫理的な悪=差別だとして指弾することは、私はやりすぎだと思うものです。
— 青識亜論(せいしきあろん) (@dokuninjin_blue) April 29, 2019
嫌悪感自体の否定は「本能を捨てろ」と同義
青識氏の言うように、何かに対して嫌悪感を持つのは仕方のない事である。嫌悪感と一口に言うが、その中には自分の身を守るための本能的な反応なども含まれており、「危険を避けるためのブレーキとして嫌悪感が湧き上がる」という事も考えられるからだ。
また、世の中には多種多様な価値観があるのだから、その中には自分にとって絶対NGな物や、なるべくなら避けたいという物が含まれていて当たり前である。
例えば、排せつ物や生きた虫や犬や猫を食べている人間に嫌悪感を持つなと言われて「はい分かりました」と、心を乱さず平然としていられる人間がどれだけいるだろうか。
もしそんな事が可能だとしたら、それはもうロボトミー手術とか、そういう次元の話である。
人が嫌悪感を感じる時は、理屈をこねくり回してあれこれ考えた末に「私はこれが嫌いである」とはなり辛い。たいていの場合は何かを見た瞬間に「うわ嫌だ!」と反射的に感じる。その瞬間に理由などなく、少し遅れて「なぜ自分はそれが嫌いなのか」という理由付けが追い付いてくる。
ゴキブリと遭遇した場合などを頭に思い描いてみて欲しいが、あの物体を目にした時に「黒くて、ツヤがあって、カサカサ音を立てて動いている、いわゆるゴキブリである。ゴキブリは不衛生な生き物であり、なるべくならば近付きたくない相手である」なんて悠長に考えるだろうか。無の境地で新聞紙を丸めて殴り掛からないだろうか。
それが嫌悪感と呼ばれるものだが、果たしてそれを「持つな」と言われてそのように出来る精神鍛錬の行き届いた達人が世の中にどれほどいるのか。
嫌悪感自体を否定するというのは、深く考えなければキレイな事のように感じるだろうが、マジメに脳味噌を動かして考えて行くと、単に思考停止の証明だと分かるはずだ。
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