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「御花、文化財の魅力をより体感できる宿へ」ホテル棟をリニューアルいたします!!

皆様、いつも柳川藩主立花邸 御花をご愛顧いただき誠にありがとうございます。

この度、柳川藩主立花邸 御花は、ホテル棟「松濤館」の全客室やロビーなどを大きく改修し、2025年1月にリニューアルオープンを予定しております。

やっと本日、皆様にお知らせすることができる運びとなりました。

2025年は1950年に料亭旅館を創業してから、75周年の迎える節目の年です。

開業当時の館内パンフレット

御花の歴史を振り返ってみる-現存する文化財が誕生した明治時代-

立花伯爵邸全域の航空写真 1930~1937年

時代は大きく変化し、大名家から伯爵家となり、明治43年(1910)に新築お披露目された立花伯爵邸は、西洋館・大広間・御居間・お子様御部屋・仏間・御宝蔵・女中部屋などの多くの棟が連なり、廊下で繋がれていました。この圧巻の景色を、この目で見てみたかったと思われる方も多いのではないでしょうか。全てではないにせよ、今も大部分が残っていることにも感動します。

当時、明治政府が誕生し華族制度ができると、全国の旧大名家等は東京に移り住むことを義務化されました。ただ、立花家14代当主寛治は、国の貢献として「農業の道」を選び、そして、東京では土地が狭いからと宮内省に特別許可を願い出て柳川に戻ってきたのです。このような例は、当時越前の松平侯爵や佐倉の堀田伯爵くらいしか例がなく、柳川の人々や旧藩士、そのゆかりの人々の喜びはひとしおだったそうです。立花家と柳川は封建社会が崩れても、強い繋がりで結ばれていたのだと寛治伯爵は感じていました。
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16代当主和雄私史「柳川の殿さんとよばれて・・・」より

当時は御花にも温室があり、様々な植物を育てていました
現在も残る橘香園、当時の様子

寛治伯爵が柳川に戻る決断をしなければ、屋敷の跡地が残るばかりで、現在の御花が誕生することはきっとなかったのではないかと想像します。寛治伯爵は御花にとって大切なキーパーソンであることは間違いありません。

時代は流れ、昭和へ。第二次世界大戦の終結後。

松濤園はいつの世も変わらない存在でありそれは人の想いと努力で成り立っています

戦後改革によって華族制度が廃止され、農地が開放され、財産税が課せられた上に相続税も重なり窮地に立たされた立花家。結果、東京のお屋敷は全て手放し、現在も残る橘香園(伯爵家農場)と殿さん屋敷やお花屋敷と呼ばれていた「御花」等柳川の土地だけを残すことになります。ただ、それでもこの広大な7000坪ある御花を維持していくのは、並大抵のことではなく・・・しばらくは途方に暮れる日々だっだそうです。そんな中でも生き抜いていくため、立花家16代当主和雄とその妻文子は収入源を確保しようと、 料亭・旅館業に自らが取り組むという、当時からすると異例のチャレンジをすることを決意します。

昭和25年(1950)5月、立花伯爵邸は立花家が経営する料亭旅館「御花」へ

当時、「殿様が料亭に通うことは当たり前じゃが、料亭を経営するとは聞いたこともなか。なんぼ世の中変わったちいうたっちゃ・・・」「素人ばっかりで水商売がでくっとじゃろうか。止めた方がよか。失敗でんすりゃ世の中の笑いものばい。」城内の中は当時、そんな会話で溢れていたそうです。

それでも16代文子は、持ち前の明るさで、「なんとかなるわよ。」と和雄を励まし、お互いに励まし合いながら残ってくれた親戚や使用人、紹介してもらった人々と共に日々奮闘していました。軌道に乗るまでには長い年月を要しましたが、幸いにも、「御花の大広間でお庭を眺めながら殿様気分を味わってみたい」というお客様も多くいらっしゃいました。

観光ブームが柳川へもやってきた「御花を訪れる人が年間20万人突破へ」

昭和39年(1964)の東京オリンピックと昭和45年(1970)の大阪万博を画期として全国的に整備された交通網が牽引し、マイカーの大衆化や高速道路網の発展が推し進めた観光ブームは、柳川にも波及しました。

はじめは伯爵時代の建物・食器・布団などを贅沢に流用して料亭旅館を営んでいた立花家も、昭和46年(1971)に株式会社 御花となり、観光ブームに乗り遅れないよう設備の充実をはかるようになります。

「御花」を訪れる観光客は増え続け、昭和49年(1974)には10万人、昭和56年(1981)は20万人を突破!!

元々観光地ではなかった柳川が、観光地として歩み始めました。


マイカー時代の到来。車がたくさん停まっているのがわかります。

こちらのお話は、立花家史料館のブログから「家政局」のお話から拝借しております。ぜひこちらも読んでみてください。

昭和59年3月1日 松濤館がついにオープン!

時代はさらに進み、結婚式のデラックス化や宿泊客の増加に対応するため、新たな建物の必要に迫られてきた御花。皆さんもご存知のホテル棟「松濤館」が1984年3月にオープンしました。

御花の拡充の中でも最も規模の大きな取り組みで、感慨深いものがあると会長の寛茂が懐かしく語っておりました。

現会長は、古いものを未来に残していくためには、古いものだけでは残せない。地元の人も良かったと喜んで、観光客もまた満足して帰る、そんな観光を目指したいと決意します。この決断により、14代が築いた屋敷の一部を取り壊すことになり、複雑な思いを沢山抱えながら、それでも未来の御花を作るため、文化財を維持していくために必死で取り組んだのが松濤館のオープンでした。

当時のご案内ハガキ

昭和の御花を一緒に楽しむ「メモリアル松濤館」がはじまります

郷土の歴史的・文化遺産である御花を手放してはならないと強い決意のもと料亭旅館として文化財を守り抜いた16代の和雄・文子。

消費されない観光の未来を目指したい。文化財の未来を描くために文化財を一部無くす決意までして松濤館を建て、輝かしい時代を築いた会長の寛茂。

民間企業として歩み始めた御花の40年間を築いた松濤館のリニューアルに伴い、松濤館を建てるまでの苦労や、当時の松濤館の活気あふれる様子、様々なエピソードをnoteで紹介していきます。ぜひフォローください。

リニューアルオープンを迎える2025年は昭和100年の記念の年ということで、こういった昭和の歴史を知ってもらい懐かしんでもらったり、新しく知った方々にも御花の過去と現在、未来を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。

40年前、松濤館が建てられていく様子
出来立てホヤホヤの松濤館ロビー

より文化財を体感できる唯一無二の宿へ

イメージ

松濤館が誕生してから40年近く様々な目的で訪れるお客様をお迎えしてきました。また平成23年に御花の歴史的価値が認められ、文化財建築だけでなく、敷地全体が国指定名勝(文化財)に指定されました。現在は、日本で唯一泊まれる国指定名勝の屋敷として様々な企画を実施しています。

私たちは2024年7月〜12月まで(予定)休館し、大規模なリニューアル工事を行います。

工事が始まる前の2024年6月までご宿泊は承っております。ぜひリニューアル前も最後のご滞在をお楽しみいただけましたら、大変嬉しく思います。

※期間やお知らせした内容等、今後変動する可能性がございます。

現在の客室イメージ

「なぜやるのか」 100年後の未来を描くための大規模改修へのチャレンジ

日本中に数多くある美しい日本の景色や文化財。それらの尊さは私たちの日常の中に溶け込んでおり、失って初めてその大切さに気がつく・・・そんなことが日本中でたくさん起こっています。

御花ももちろん例外ではありません。今までの御花の歴史を少しだけご紹介した中でもご理解いただけるのではないかと思うのですが、常にピンチと隣り合わせ。文化財は当たり前にあり続けているのではなく、常に戦いは続いているのです。

無くなってから気づくのではなく、日々文化財の尊さに気づいてもらえるように。そのために「文化財に触れる機会を増やし、100年後の未来へのバトンをみんなで繋いでいく。」

今なお生き続ける約400年の立花家の歴史を持ち、100年に1度は大きな修復工事が必要となる文化財たちに囲まれながら日々働いている私たちだからこそ、伝えられることがあると考えています。

今回の宿泊棟のリニューアルでは、「今も大名家の末裔が受け継ぐ文化財の魅力」をより存分に楽しめるホテルに生まれ変わる」ことで、日本で唯一泊まれる国指定名勝の料亭旅館という特徴を活かしたアクティビティや大名家(立花家)の歴史・ストーリーを感じられる唯一無二の体験を提供してまいります。

そして、文化財を活かしながら、後世に繋げていくモデルとなるため、今までにない新しい挑戦をしていきます。

皆様、どうか私たちのチャレンジを応援いただけますと幸いです。

■リニューアルオープン概要
リニューアル工事箇所 :全客室、ロビー、ラウンジ等
室数 :20室
リニューアルオープン日:2025年1月予定
予約受付開始 :2024年11月1日予定
備考 :2024年7月1日から12月まで改修工事のため宿泊棟は休館。
※詳細は変更になる場合があります。




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