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【サイドストーリー的な特集ページ②  盲導犬キュリー編】


愛しの盲導犬キュリー  広沢里枝子



【写真・植田正治(写真家) NHKハート展より】

 1998年12月21日に、私の初代盲導犬のキュリーが死んだ。
 どうか、ここでは、何度でも言わせてほしい。私のキュリー、私のキュリー、私のキュリー…私の大切なキュリーが死んでしまった。
 
 彼女の最期がどんなだったのか、私にはまだわからない。私が老いたキュリーを手放した後、2年半も可愛がってくださった佐藤英吉さんに、まだ、聞けずにいるから。
 でも、わかっているのは、キュリーは、私達の家族だってこと。12年間、ずっと一緒に暮らした、私たちのかけがえのない家族だった。
 以下は、漫画家の波間信子さんにあてた手紙の一部である。波間さんは、現在『ハッピー』という、盲導犬をテーマにした作品を描いておられる。この手紙には、私のキュリーへの気持ちを最も率直に書けた気がしている。少し長いが、読んでわかってもらえれば嬉しい。

さよならキュリー
  漫画『ハッピー』の著者 波間信子さんへの手紙(1998年5月)

以前にお心のこもったお便りをいただいて以来、キュリーのその後のことなど、いつか詳しくお手紙に書きたいと思っておりました。私たちに「ハッピー」を教えてくださった宇野孝子さんという方から、波間さんは、盲導犬の引退後のことをおりにふれて考えておられるようだと聞いていたからです。
 そこで、盲導犬の引退後の生活は、様々あることと思いますが、キュリーの場合について、ご報告します。

 盲導犬訓練所から、「そろそろキュリーを取り替えないかね」と突然の電話があったのは、キュリーがもうすぐ12歳の誕生日を迎える頃でした。
 私の耳には、この「取り替える」という言葉が、ひどく残酷に響いて、しばらくは、言葉も出なかったことを覚えています。やっと声が出た時には、「いいえ、結構です」と、強く拒絶していました。
 訓練士さんは、一瞬驚いたようでしたが、私をなだめるように、犬は、12歳を過ぎると急激に体力がおち、犬にとっても、使用者にとっても、負担が大きくなること。あまり年をとってからでは、犬は、新しい生活になじみにくくなり、奉仕者のほうでも預かりにくくなることなどを説明し、今なら、あなたにちょうどいい犬がいるからと勧めてくださいました。けれども、その時の私は、心が固まってしまったように相槌も打てなくて、ただ黙っていたのです。
 訓練士さんが話し終えると、長い沈黙となり、訓練士さんは、急にいらだったように 「じゃあ、好きにしなさい。でも、言っておくけど、君のことを一番わかってるのは、僕なんだからね」と言いました、
 この最後の言葉は、私にとって重ねてショックでした。ずっと尊敬してきた訓練士さんだけに「どうしてそんなことをおっしゃるのだろう。私のことを一番知っているのは私自身だ」という思いが胸につきあげてきました。

 ところがこの後、キュリーの体力は、訓練士さんの言ったとおり、みるみる落ちていったのです。
 この電話から、1週間もたたない頃だったと思うのですが、ラジオの取材の仕事でお会いした犬に詳しい方から、「おや、この犬は、白内症をおこしているね。そろそろ盲導犬の仕事は、無理なんじゃないか」と言われました。びっくりして獣医さんに見ていただくとその通りで、「目薬は、出すけれど、これは、おまじないのようなものだから」とのことでした。また、その目薬は、1日に、6度さすようにということだったのですが、私が、一人でさすのは、どうしても難しくて、家族のいる2度ほどになってしまい、キュリーの瞳は、曇っていってしまうように思われました。
 更に、キュリーのあごに腫瘍ができて1度手術した後、下腹部にも、腫瘍がふたつ見つかり、開腹手術をしました。

 また、この手術の後、私が迎えにいくと、キュリーは、今までにないほど怯えていました。足腰の力が抜けたように車の段差も上がれず、抱いて乗ったことを覚えています。その後は、そういうことが増えていきました。歩くのにも、鼻を頼りに道端の匂いをあちこち嗅ぎながら、私に励まされてようやく歩いている感じになってきたのです。すれ違う人々にも、「キューちゃんは、お礼奉公かい。ご苦労だねえ」などと、気の毒そうに声をかけられたりしました。この夏、キュリーは、交差点で信号待ちをしているほんのわずかの間にも、寝息をたてて眠ってしまうことがあり、胸がいたみました。それで私も、ようやくキュリーをもう仕事から解放してやらなくてはと、真剣に考え始めたのでした。

 夫は、何とかしてキュリーと新しい犬を一緒に飼えないものかと考えてくれたようです。でも、キュリーの目の前で、若い犬と出かけていくなんて、それこそ、とてもできないと私は思いました。いっそすべての活動をやめて、キュリーと家で過ごそうかとも何度も思ったのですが、それでは、生活そのものが一日たりとも成り立ちません。そのことは、キュリーの入院中に身にしみて感じていました。また、友人たちは、「ここで全部やめたら、キュリーに申し訳ないじゃないの。あなたは、キュリーのためにも新しい盲導犬を持ってもう一度歩かなきゃ」と励ましてくれたのでした。

 こうして迷いに迷ったあげく、新しい盲導犬を持つ決心をし、盲導犬の貸与事業を行っている長野県庁へ手続きをしたのが秋口のことでした。そして私は、キュリーの訓練所とは違う東京の訓練所から盲導犬をいただくことが決まりました。
 ただ、キュリーをどなたに預けるかは、その頃、まだ決まっていなかったと思います。

 盲導犬の使用者の中には、引退犬を元の訓練所へ引き取ってもらう方もあるようですが、訓練所の人手の足りないことも承知している私としては、それは気がすすみませんでした。また、東京の訓練所では、引退犬を預かってくださる奉仕者がいて、訓練所を通してお願いできると聞きました。けれども、できることなら、見ず知らずの方ではなく、私自身が心から信頼できる方に、娘をお願いしたいと思ったのでした。

 しかしながら、いざ、老いたキュリーを盲導犬だった時と同じように常にそばにおいてくださる方を探すとなると、それは、思った以上に困難でした。
 犬好きの方は、たいてい犬を飼っていますし、犬を飼っていないお宅は、それなりの理由があるのです。若い方たちは、仕事など忙しく、キュリーのそばにいていただくわけにはいきませんし、年輩の方は、「何かあった時」と考えると、引き受けられないようでした。

 最初に私がこの方にと思っていた方は、ご家族の承諾が得られず、泣いて謝ってくださいました。そのことがあって、これは、お聞きするだけでも大変なご負担をかけることなのだと気づき、一旦は、あきらめかけたのです。

 ところが、ある日、私は点訳グループに出かけて、佐藤英吉さんという方に、「キュリーを預かっていただけないでしょうか」とお聞きしました。彼は、仕事をもっている上、手話通訳者であり、点訳者であり、公共楽団の打楽器奏者でもあります。ですから、とても無理とわかっていましたが、犬好きで、誠実で、特にキュリーを大事に思ってくださっていたので、聞いてみずにはいられなかったのです。

 すると、佐藤さんは、「いいよ。そう思っていたんだよ」と、一瞬、耳を疑うくらい簡単に引き受けてくださいました。
 この時、私がどんなにほっとしたか、おわかりいただけるでしょうか。さっそく盲導犬使用者の仲間に話すと、「佐藤さんだって!よかった!いや、よかったどころじゃない、最高だよ」と一緒に喜んでくれました。

 その後、佐藤さんは、キュリーを迎えるために考えつく限りの準備をしてくださったようです。引退犬を預かっている方たちや、獣医さんに話を聞きに行ったり、家や庭をキュリーのために改造したり。また、佐藤さんは独身のため、職場や自分が活動に出かける先々へ、キュリーを連れていけるように交渉して歩かれたようでした。私も、キュリーの健康面の注意など、細かいところまでお伝えすることができましたし、「これでいいかどうか、見にきてほしい」と佐藤さんに言われて、お家を見せていただいたこともありました。

 そのおかげで、私たち家族は、それぞれに少しずつ安心して、キュリーとの最後の日々を過ごせた気がします。年が明けてからは、むしろ、せっかく準備ができているのに、合宿訓練に入る日が決まらず、キュリーに無理をさせていることの方が気がかりでした。

 その頃のキュリーは、だいぶ見えにくかったのか、家の近くでも迷って、なかなかたどりつけなかったり、若い頃は、15分ほどで歩いたお気に入りの散歩コースを1時間以上も、時には、2時間近くも歩いて、ようやく帰りついたりしました。それでも、やっぱり休ませてやれないくらい、私にとってキュリーは、なくてならない存在だったのです。

 2月に入って、合宿訓練に入る日取りが決まってから、友人たちが、「キュリーの第二の犬生を祝って」というテーマで、キュリーのために盛大な慰労会を開いてくれました。この会には、11年前に遠方の訓練所まで、私に付き添って行ってくれた町職員の方を始め、キュリーにかかわってくださった方々が大勢参加して、キュリーとの思い出話に花が咲きました。キュリーが、超越した人のようにゆったりと寝そべって、声をかけてくれる人たちにパタンパタンとしっぽを振って応えていたようすが印象的です。

 このパーティーのようすは、「盲導犬キュリーの第二の犬生」というようなタイトルで、新聞にも載りました。その後、ラジオやテレビにも取り上げられて、友人が考えてくれたこの「第二の犬生への出発」という積極的な見方は、少しずつ周囲に伝わっていった気がします。その頃、人に聞かれてキュリーを友人に預けるなどと話すと、「おやねえなあ(かわいそうに)」と言われてしまうことがあり、私は、その度に胸を痛めていましたが、そうではなくて、これは、キュリーのためにも良い選択なのだということ。盲導犬は、こうして一生、人の手によって、大切にされる幸せな犬だということをわかってもらえたらと願っていました。

 さて、昨夜は、夢中になって音声ワープロを打っている内に、夜が明けてしまいました。1時間ほど寝て、またワープロに向かっています。

 東京の訓練所で2頭目の犬との合宿訓練を受けるのは、3月初めから、1ヶ月間と決まりました。そして、キュリーは、佐藤さんのご配慮で、その旅立ちの前日までうちに居て、夜、家族皆で佐藤さんの家まで送って行く約束になりました。

 キュリーは、別れる最後の日も、留守中の買い物に行く私を案内して、働いてくれたのです。その日、家の前の坂道で、ちょうど工事が始まっていたので、近所の畑のおじさんが走ってきて、工事の所だけ手引きして下さいました。その時、私は、今日でキュリーが引退する事を話しました。すると、その方は、私たちと別れた後、麦藁帽子を脱いで深々と頭を下げて、私たちを見送ってくださったのだそうです。その光景は私の心にくっきりと残り、後にひとつの小さな詩になりました。こんな詩です。
  
  

11年間の仕事を終えて

 私の盲導犬キュリーが
 背中に白髪を光らせながら
 坂道をゆっくり下って行った朝

 畑にいた紳士が
 麦藁帽子を脱いで
 だまって頭を下げて
見送ってくれたそうです

 その光景を
友が見届けてくれました


詩の英訳

 この詩のタイトルは、本当は、「私のキュリー」とつけたかったのです。「私の」と言う思いが、泣きたいほど強くありました。でも、「僕のキュリー」と思ってくださる佐藤さんに申し訳なくて、一人で遠慮しました。

 別れの日の夕方からの様子は、テレビ放送「ドロシーは私の光」の録画にもあったとおりです。テレビの取材がある事を知らずにお別れに来てくれた友人が、緊張していて泣けない私に代わって、泣いてくれました。いつも元気なまさきが、この日は、拗ねたようにむくれっぱなしだった事も、今思えば、当たり前の事でした。

 佐藤さんのお宅では、テレビに映らなかった事の中に、感動がありました。それは、別れの時でした。

 キュリーは、疲れたのか、ぐっすりと眠っていました。私は、キュリーとお別れができるとばかり思っていたのに、夫は、「起こさない方がいい、このままそっと立ち去ろう」と言いました。私は急に悲しくなってしまいましたが、考えてみれば夫の言う通りでした。

 ところが、今度はカメラマンの方が、別れのシーンを写したいからキュリーを起こして、玄関へ呼んでくれないかと言ったのです。今度は、佐藤さんが「出来ません」と、はっきりと断りました。それで、テレビカメラは追い出されてしまったのですが、その後、佐藤さんは、一人でそっと玄関へ来て、子供たちと私に強く握手して下さいました。

 黙って、ただ強く手を握り合っただけなのに、佐藤さんのお気持ちは本当に深く伝わったのです。あきとまさきは、急に嬉しそうになって、「佐藤さんていい人だね。キューちゃん、よかったね」と何度も何度も言って、お別れだと言うのに、にこにこしながら帰りの車に乗ったのでした。

 その夜も翌朝も、私は何度も「キュリー」と呼びそうになり、「ああ…」と気が付くと穴の空いたような寂しさでした。東京の訓練所へは、長野県の職員の方が付き添ってくださったのですが、キュリー無しで歩く事は、半分体が宙に浮いたような不安な感じでした。それでも夜になって佐藤さんに電話してみると、キュリーは、あの後、目を覚まして少し不安そうにしたものの、佐藤さんが添い寝してやると、ぐっすり眠ったとの事。排便も出来たと聞いて、ほっとしました。

 こうして、訓練に入った私が初めて2頭目のドロシーに会ったのは、その翌日だったと思います。「この犬はドロシーといって、明るく繊細、仕事好きです。名前を呼んでやって下さい」と、訓練士さんに言われ、ドロシーのリードを受け取りました。
 ところが、私は、思わず「キュリー シット」と言ってしまったのです。胸がきゅんとしてどっと涙がこぼれました。
 けれども。ドロシーは、苦にもしていないように静かに私の傍らへ来て座りました。何と素直な優しい子だろう。キュリーと似ている… 私は、感謝の気持ちで一杯でした。

 その後、佐藤さんに直接電話してキュリーの様子を聞くような事は、なるべく控えるようにして、1年近くが過ぎました。佐藤さんは、キュリーを預かるのと一緒に、おうちの事情で転職して、知的障害者のグループホームで世話人をすることになりました。そして、毎日、キュリーをピカピカに綺麗にして、一緒に通勤しておられると色々な人から聞きました。そのグループホームは、障害者が働くお店が一緒になっているため、キュリーは、住人さんたちや、お客さんたちの人気者になっているようでした。

 また、佐藤さんは、キュリーと一緒に色々なグループを回って、手作りパンの配達などもしていたので、「キュリーに会いましたよ。すごく元気そうだったよ」と、あちこちから聞こえてきました。
 別の知的障害者の方々のグループホームでは、キュリーは特別に可愛がられているようでした。佐藤さんの話によると、住人さんの中には、キュリーを心待ちにしていて、何時間でも撫で続ける人や、普段は人に心を開かないのに、キュリーが来ると赤ん坊をあやすように相好を崩して可愛がる人があるとか。
「人間じゃ絶対に出来ない働きをキュリーは出来るんだよ。それも、ただの犬じゃだめで、やっぱりキュリーだから、誰でも絶対安心って思って心を開けるんだと思うな」と、佐藤さんは驚きの体験を私にも伝えてくださいました。

 こうした経験から、佐藤さんは、キュリーをもう一度生かすことを考え始めたようです。
 お年寄りの集まるデイサービスや、老人ホームなどにも呼ばれて、キュリーは、毎週何回か、セラピードックとして働くようになりました。
 15歳になった今年は、キュリーの体力を考えて、仕事は一箇所だけにしたようですが、それまでは、あちこちへ行ってお年寄りたちにも喜ばれていました。

 テレビのニュースで、セラピードックとしてのキュリーの仕事ぶりを見たことがありました。キュリーは、長年働いてきた犬というので、そこにいるだけで、心が和むと言うか、共感を持って、お年よりたちに受け止めて頂いているようでした。痴呆症のお婆さんが、自分の可愛がっていた犬の名前を呼びながら、キュリーに寄り添っていた事も、印象的でした。

 この様にキュリーは、佐藤さんに出会えたお陰で、まさに第二の犬生を生きたのです。
 テレビの中で、佐藤さんが、ブラシを二つ持って、凄く上手にかけていたと言って、子供たちが感心していましたが、キュリーは、前よりピカピカです。目薬も、ちゃんとさしてもらえるためか、視力低下も、おさまっているようでした。この頃は、排泄の心配もあるらしく、私では、見てやれなかっただろうなと思うのですが、佐藤さんは、周りの人たちも、もう皆分かってくれているし、拾えばいいだけだからと言ってくれるのです。

 ところで、キュリーと別れて、1年ほど経った頃、まさきが、キュリーに会いたいと言って、佐藤さんが、キュリーと一緒に来るというコンサート会場へ、一人で出かけたことがありました。

 その時、佐藤さんは、気を使ってくれて、まさきの横にタオルを敷いて、キュリーを寝かせてくれたそうなのです。ところが、キュリーは、まさきが、撫でても摩っても、見ているのは、佐藤さんばかり。佐藤さんの声が聞こえたとたん、あっという間に、飛んで行ってしまったそうです。

 まさきは、自転車を押しながら、私にその話をしていたのですが、「俺、その後ずーっと2時間も、タオルに付いてたキューちゃんの抜け毛だけ見てたんだよ。俺の気持ち分かる?」と言って、不意に自転車に飛び乗って、走って行ってしまいました。泣き顔を見られたくなかったのかも知れません。

 そして、今年のお正月。私たちは、初めて、家族皆で、キュリーに会いに行きました。私の傍には、ドロシーがいたので、私は、少しキュリーと離れて座ったのですが、夫や子供たちが、撫で回しても、声を掛けても、キュリーは、じっとしたまま、佐藤さんだけを見ているようでした。佐藤さんは、夫たちを慰めて「もう目も見えないし、耳も聞こえないから、きっと分からないでしょうね」と、言ってくれました。

 ところが、佐藤さんが立ち上がると、キュリーは、慌てて立ち上がるのです。佐藤さんが座ると、また、安心したように座ります。帰りぎわに、皆で、写真をとろうと言うことになり、佐藤さんがキュリーに手招きをすると、キュリーは、さっと立ってきて、佐藤さんの左横に座りました。「やっぱ、見えてる!」と子供たち。

 正直言って、私も、家族も、ちょっと寂しかったのは、確かです。でも、これは、最高に喜ばしいことだよねと、話し合いました。新しい主人に次々従えるのがラブラドールレトリバーの長所と聞いていましたが、こんなに忠実に従えるキュリーは、素晴らしい犬だと、改めて思いました。

 これで、良かったのです。

 さて、大変に長い、取り留めのない手紙になってしまい、申し訳ありませんでした。次々と、思い出が蘇ってきて止まらなくなってしまったようです。お許しください。

  

佐藤英吉さんからの手紙(1998年12月23日・点字)


 師走の慌ただしさも、後数日となりました。
 新しい年を迎える楽しい時ですが、悲しいお知らせをします。
 12月21日午後11時、キュリーが黄泉の国に旅立ちました。
 最後まで、迷惑を掛けるのがいやな態度でした。
延命治療も、キュリーの苦しみも長くなるのでやめ、自然に任せました。
 キュリーの様子や、思い出を書こうとすると、悲しみが込み上げ、
言葉になりません。
 落ち着いたら、お話できると思います。

 佐藤さんへの手紙(1998年12月26日)


 12月25日の夜に、佐藤さんからのお便りを拝見しました。
 佐藤さんが、キュリーのためにしてくださった事は、
皆、間違いなかったと分かっています
 佐藤さんのお陰で、キュリーは、一生を全うすることが出来ました。
 キュリーを自分の犬として愛してくださった佐藤さんに、
こんな事を言うのはおこがましいと分かっていますが、
どうか言わせて下さい。
 佐藤さん、有難うございました。
本当に本当に有難うございました。
 どうか、お元気になってください。

『もらとりあむNo.4 1999冬草』収録

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