凍土と砂漠の信仰者たち
この週末、YouTubeで「Monastery Life」で引っかかった動画を片っ端から観ていました。いろんな動画を観ましたが、都市部の設備の整った美しい修道会よりも、荒地の孤高の修道士のドキュメンタリーが心に残りました。
まだまだ観終わってないですが、印象に残ったのを2つ。
THE BRETHREN(2012)
ノルウェイ・フィンランド国境付近のロシアの都市、ムルマンスクにある世界最北の修道会。ここには6人の若い正教会の修道士がいて、修道生活を送り、礼拝を行なっています。もともと修道院があった場所らしく、戦争や政治的理由で廃れていたのを、再興しようとしているとのこと。。
荒涼とした土地に、質素な木造の家屋群。凍てつく寒さの中。修道生活に加わろうとしたけれど、続かない者が多いという。
インタビューの中、6人が素朴な口調で、ここに辿り着いた理由や目的を語る。寒さや逆境の中とは思えない、そして「再興しよう」というギラギラメラメラした闘志もなく、あくまで穏やかで素朴な姿がとても印象的でした。
建築を拡大し、もっと大きな修道院にし、巡礼者が泊まれるようにしたり、長く居着く人が出てくるだろうという未来への展望を口にしながら、「でもわたしたちの本当の家は天にある。聖堂は、自分の心の中に建てるべきだけどね」と語っていました。
文学の先生を招いて勉強会を行うシーンで、スカーフを頭にかぶったおばあちゃん先生が、「ロシア文学は、ギリシア古典文学をルーツに持つ。」といったことを説明している箇所がありました。世界は本当は、本当に一つなんだなぁ。
BBC: Extreme Pilgrim - Ascetic Christianity(2012)
BBC制作の珠玉のドキュメンタリー。イギリスの田園地帯で牧師を務める主人公が、エジプトの砂漠にある世界最古のコプト正教会の修道院を訪ねます。聖アントニウスという聖人を起源とする修道院。聖アントニウスは世界で最初の修道会設立後も修行の道に進み、なんと亡くなるまでずっと砂漠の洞窟で独りで隠遁修道士として過ごしたそうです。
その砂漠に、彼を倣って、現代でも隠遁修道生活を送る修道士がひとりいます。Fr. Lazarus(ラザルス神父)という人です。このラザルス神父の暮らす砂漠の洞窟で、主人公は3週間生活するというチャレンジを行います。
ラザルス神父は、もともとは40年間マルクス主義を大学で教える無神論者のオーストラリア人。家族との別れをきっかけに、コプト正教会の修道院に入り、1年を経てから砂漠に出たのだそう。この辺は別の動画で語られていました。
「以前ドイツ人の医師が、砂漠生活を体験しにきたよ。彼は一晩で気が狂いそうになって、帰っていったよ。最初は戦いだ。自分の弱さ、恐怖との。その先にあるものを味わって行ってほしい」ラザルス神父は主人公に語りかけます。その言葉通り、大柄な逞しい主人公ですが、その忠告通り、主人公は、孤独、ホームシック、不眠、恐怖を味わいます。「幸福と不幸が順番にやってくる」と、朦朧とした顔つきで朝ごはんを作りながら語っていました。しかし彼は最終的には砂漠の試練を乗り越えました。21日目、別れの挨拶の時、ラザルス神父に「砂漠の顔になったね。僕はここに死ぬまで残るが、君は砂漠を内側に携えて都市に戻って行ってほしい」と言われていました。
砂漠の隠遁生活って、立派な信仰生活のように観てて、自己満足なのではないか?そんな思いが一瞬よぎりましたが、ラザルス神父の秀逸なコメントに打ち消されました・・・
(略約)私の中に全人類が存在している。私が祈るということは全人類が祈るということ。私が祈らないというのは、全人類が神に背を向けるということ。そういう風に考えれば、自分は神の前に立つ人類の象徴的な存在となり、祈らないということが怖くてできなくなるだろう。
つい祈りは個人的なこと、近くの人のことになりがちで、全人類を代表するという意識で祈ったことがあっただろうか・・・いや、なかった・・・と反省しました・・・。
Fr. Lazarusが何十年も砂漠で独りで暮らしながら、正気を保ち、信仰を深め、それでいて穏やかでフレンドリーでほわほわっと喋るその佇まいに、わたしはとても惹きつけられました。
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