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身は地上に、心は天に属する

昨日会社の人とお昼を食べました。年齢の近い研究開発職の方。懇親会を機に、彼女はシャーマニズム、私はキリスト教を入り口に探究をしていることがわかり、お話をしてみようとなったのです。

すごく意気投合できるところあり、まるで違うところもあり。それがまた面白かったので書きたいなと思います。

意気投合した部分は、現代でも人間はとても原始的な感性を持っている、プリミティブな存在であるということ。原始的な感性とは、霊的と言い換えることもできるのだと思いますが、人間の知性を超越した領域があることを認識し、その領域との交わりを求める感性だと思います。私たちが属し、恩恵を受けている資本主義経済社会・物質主義的社会は、プリミティブな感性を全く必要としないし、そもそも無いものと見なして進んでゆくシステムなので、そういう感性を持つ人は疎外感を感じるし、ある種の自己矛盾を感じてしまうこと。また、宗教は人々の霊的成長を促すためにあるはずだけれど、時の経過と共にいつしか組織の存続が目的となってしまい、かえって本筋と外れがちになっているということ。内的探究は組織や共同体に属して可能になるわけではなく、あくまでどこまで行っても個人の取り組みに委ねられている、などなどについて話しました。彼女も私も、自分自身の中のプリミティブな感性を認めているという共通点がありました。

その後、彼女と私の違いが明らかになりました。

彼女いわく、文明社会では医療も科学技術も発展し不確定要素が減ってきたので、太古の頃に比べて、神がかりや奇跡が必要ではなくなってきた(例:食糧を得るのにシャーマニズムや祈祷を用いていたが、いまでは溢れるほどの食糧が手に入る)。物質的な利益を追求する民間企業で働くということは、原始的な感性の探究とは相容れないものなので、自分を護るためにも探究をセーブしている。ただ本来の人間のあり方から逸しているので辛い。人間本来の霊的なあり方が許容されない現代社会に嫌悪を感じる。ブッダの言った通り、人生は四苦(生死病苦)である。
繋がりを求める対象として、「神」にはリアリティを感じない。リアリティを感じるのは、自分の意識が個々人の枠を超えた共有意識(世間でワンネスと言われる状態)におかれている状態。
とのことでした。とても現世を悲観し、分裂状態に陥っているようだなぁという印象を受け、わたしは驚いたのです。

文明が発達し、昔は得るのも一苦労だったものが簡単に手に入るようになり、寿命も伸びたけれど。依然として人間は有限の存在だから、神の介入や祈りが要らなくなった訳ではないと思います。自助努力の及ばない領域はありますし… 職業においてならば、出会うべき人と出会えるか、能力が最大限に生かされる仕事を任されるか、必要な能力を備えているか… すべて自助努力で成していると思う人もいれば、すべて神から与えられていると思う人もいるでしょう。わたしは後者の考えを持っています。

私は創造主=神を信じ、神の働きを日々の中に見つけようとしています。その生き方を揺るぎないものにしたかったので洗礼を受けてクリスチャンになりました。ものすごい霊感持ちでは無いけれど、霊的世界を垣間見た経験は少なからずあるし、祈りが応えられたり応えられなかったりを積み重ねて「神の望む私のあり方」=神の子(人は誰しも神の子)としての生き方に少しずつ近づいているのかなということに、手応えと安心感を覚えています。それが自分のアイデンティティーになってきています。そのアイデンティティーを携えたまま会社に行くことが、自分の中で折り合いがつかずに苦しかった時期もありました。俗世間の仕事をする中では、神を信じる心の置き場がないと思っていたのです。そういう心は死んでしまうと思っていたのです。
しかし、いままでに応えられた祈りの数々を振り返ると、神の介入は形あるものを通して表現される原則があるようだ、とも感じていました。主の祈りにも「御心が天に行われるように地にも行われますように」とあります。ならば、例外はないはずだから、試してみようと思ったのです。「どんな仕事をしていても、神があらゆる形で私を用いてくれますように。私に与えられた賜物が活かされますように。私の希望ではなく、神様のみ心が行われますように」

業務の達人になったわけでは「決して」ありませんが(残念ながら…)、明らかに用いられる場面が増えてきました。声をかけてくれ、関わってくれる人が増えてきました。朗らかな人が周りに現れ始めました。そして、人と関わる時、何かに取り組む時、「神の介在」を絶えず求めるようにしています。忘れそうになったら、思い出して、なるべく頻回に、なるべく頻繁に。絶え間なく。そして徐々に「地の塩、世の光」のような存在に近づいていけたらなと。
そこで気付いたのです。これは「練習」みたいだと。これが、私が社会生活のなかで信仰を鍛練する練習。そうなったら、どこもかしこも祈りの場になります。教会や巡礼路や修道院だけではありません。そのように社会生活と信仰生活が二者択一の相容れないものではなく、コインの裏表のように感じられるようになってきました。地上に身を置きつつ、心は常に神の国に置くように・・・。柳田神父が「死んだように生きる」とYouTubeで表現していましたが、ほんとにその通りだと心の中で思いました。

「霊的成長のゴールはなんだろうか?人類が一人残らず霊的成長を達成したら地球はどうなるのだろうか?」

その問いに対し、彼女は「ゴールを設定しようとするところ自体が人間の悲しい性質。ゴールを求め、繁栄を求めすぎる。足るを知るべきだ」と言い、

私は「神の次の計画はなんだろうか?考えても仕方ない。神のすることは神がするのだから」と思っています笑。

神はひとりで十分なのになぜわざわざ未完成の世界や生命を作ったのだろう。私は、神も「自己を拡大」したいのではないかなと思います。人間も動物も友達を作り、家族を作り、共同体を作ります。一人ぼっちでも死ぬことはないのに、です。
なぜ?人間も根源的には自己を拡大させたいからではないでしょうか?拡大させたその先で、神の領域へ重なってゆき、本来の故郷に戻れるのを本能的に知っているからではないでしょうか…
本当のところは私に知る由もありません。答えが初めから分かっていたら誰も神を探求しなくなります。だから神は巧妙に隠れているんじゃないかなと…思うのです。

神(または神的な何か)を知りながらも神と切り離された状態は、本当に苦しいのですが、私もそれを経験したことがあります。なので、一緒にお昼を食べてくれた彼女にはぜひ、悲観ではなく、希望をもつための探究を再度してほしい!と切に思った、そんなお話です。




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