鬼のゴンちゃん 人形劇
さあはじまるよ!
いよいよくまちゃん人形劇の時間です。
タイミングを合わせて呼び込みして…
と考えていたけど、ふと見るともうすぐそこにおるやん?!
見えている🥹🥹🥹
見えちゃってるならしょうがない!
みんなの視線が明らかに私ではなくゴンちゃんに行っているけど始めちゃうよ!
「さあ〜みんなでゴンちゃんを呼んでみましょう!」
「ゴーンちゃーん」
「はぁ〜い!!」
という陽気な声とともに、おっきな黒子とおっきな赤鬼さんが観客席に出てきました。
しかも子供達を引き連れて。
はじめはゴンちゃんのアシスタントが二人横についているな。
くらいで思っていたのに、いつの間にやら子供がわらわらと群がってきた。
えっ…
徐々に表情が固くなってしまう私。
どうやってみんなを席につかせたらよいのだろう。
司会の出番はもう終わった以上、マイクで指示をするわけにいかない。
考えているうちに、わらわらわらと子どもたちは増えてゆく。
うちの娘も便乗してる。
うわあ〜ひどい。
ここでなんらかのアナウンスしなければ。
でも子供達は全員、お目めキラッキラで本当にいい顔してる。
このわいわい楽しそうな雰囲気に水を差していいものなのか?
どうしよう〜とハラハラしてたらくまちゃんが言いました。
「お母さんたち、安心してください。
子どもたちは大丈夫なの」
ん〜?
大丈夫なのか??
尋常じゃない群がり方をしているけど。。。
でもくまちゃんが大丈夫って言うなら大丈夫って思うしかない。
プロの司会の人はこういうとき機転のきいたことをきっと言えるのかもしれない。
だけど私はどうしていいかわからず固まってばかり。
炎天下で冷や汗をかいて戸惑っていた。
でもくまちゃんと子供達を信じて見守るしかないよね。
だって私がこのイベントで設定したことは
「とにかくみんなが最高に楽しい時間になる」
それだけだから。
みんなが最高に楽しくなるいい言葉が思いつかないんであれば、だまっていたほうがいいに決まってる。
子どもと大人、それぞれの視点
お話は花咲かじいさん。
子供の頃から何回も聞いたことのあるお話だけど、鬼さんから聞くお話は情感たっぷりでめっちゃ面白い。
ゴンちゃんの陽気な語り口調が、宮崎の青空に響いては溶ける。
観客席の芝生を広く使って、あっちをいったらこっちにいったり。
そのあとを子どもたちがぞろぞろぞろ。
中にはずーっと腕をひっぱっている子もいたし、何度もパンチを繰り出す子も。
さすがにパンチはいかんやろ…ゴンちゃんのこともっと大切にして。
と思ったけれど、くまちゃんは大丈夫大丈夫っていってる。
しかも腕を引っ張っている子供は私も知っている子。
どちらかというと前に立って目立つようなことは全くしないタイプの子なんだけど…
にこにこしながら腕を引っ張り続けてる。
きっとママもハラハラしていつ声かけようか気が気じゃないよね〜と顔を見てみたら、やっぱりステージを睨むように見ながら固まっている。
あらあら…
まあくまちゃんがなんとかしてくれるだろうって願うしかない。
この道30年のプロが大丈夫って言ってるんだから信じよう。
一方ピザ屋のとしくんは、ゴンちゃんステージをステージの裏側から見ていました。
キャッキャッと笑いながらくまちゃんの足元にまとわりつく子供たち。
あっ!悪いことしてる…。
あんな足元であぶない!
て思って、やはり私と同じくハラハラして、どこで注意しようかなって構えてたらしい。
そんな折、くまちゃんが突然劇を中断してお話を始めました。
「実は今、僕の後ろで子供達がお手伝いしてくれているんです」
見るとはにかんだ笑顔で照れているみゆちゃんとお友達。
みゆちゃんは私の娘のお友達。
身体能力がすごく高くて就学前から側転バク転お手のもの。
ご両親の愛情をいっぱい全身に受けて、いつでも朗らかに笑う活発で利発な子。
ただ身体能力が高いだけではなくて、とにかく一度目標を決めたらそれを諦めず最後までやり抜くど根性が本当にすごい。
自分の能力と可能性を1ミリも疑っていないし、やりたいことをどんどん叶えていく。
子供の言うことを全部聞いたら甘やかされすぎて何もできない子供になるとかっていう主張をする人がいるけれど、この子と家族をそばで見ているとそんな主張は妄想に過ぎないって本当に思う。
子育てとは、子供を叱って枠に入れることではなくて
子供をいかに笑わせて楽しませるかってことなのではないのかなって思う。
大人になったら真剣さを求められることが多くって、笑ってばかりの毎日ではいられない。
だからこそ子供のうちに、心から無邪気に笑える時間を1秒でも多く過ごさせることが親のつとめなんではないかと思っています。
じゃあうちの子はどうなのかというと…。
しっかりできてます!と胸を張って言えるわけではなくてですね。
我慢させたり待たせたり、私の都合で動くことがほとんど。
とにかくこのみゆちゃん一家を見ながら背筋が正される思いがするのです。
…話が脱線しました。
そのみゆちゃんが、うしろでぴょんぴょん跳ねながらたしかにくまちゃんとゴンちゃんの足もとにまとわりついている。
「ぼくのおなかが大きくて紐を結び直すことができないから、この子達が手伝ってくれているんです」
ズガーンと衝撃が走りました。
みゆちゃんはなかなか座らないんだなあと思っていたけど、なんとくまちゃんのお手伝いをするという意思を持って舞台に立っていたとは。
後ろで注意すべきかと思い悩んでいたとしくんも、ハッとさせられ自分を恥じたと言います。
自分は子供が悪いことをしているとばっかり思っていた…。
一生懸命な子供の気持ちを台無しにするところだったと、あとで語ってくれました。
同じく私も娘がヘラヘラ笑いながら妙な動きをしているなって思っていました。所在なくうろついている姿を見て、早く座ればいいのに…と気になって気になって。
でも私はカメラの撮影をしているし、他の子供も一緒になって楽しんでいるところを「こっちにきなさい」とも言えないし。
と思っていたんだけど、今回ビデオを見返して気づいたことがありました。
うろつきながら、ゴンちゃんを攻撃しているように見える子たちにずっと話かけていたのです。
くまちゃんやゴンちゃんにではなくて、体と顔が完全に子供たちの方にむいてます。
お話聞いちゃいないんじゃないかな?
でもたぶん、ゴンちゃんに執拗に絡む子供の興味を逸らそうとしている。
それを「だめだよ!」とかって怒るのではなくてヘラヘラ顔でたぶん別の話題を振っている。
娘なりに空気を読み取ってきっとくまちゃんが身軽になった方がいいと判断して動いているんだな。
男の子がゴンちゃんのことが好き過ぎるせいで我が娘の試みは失敗してるんだけど、顔はヘラヘラしていて全然真剣さはないように見えるんだけど、それでも自分ができる最大限のことをしていることがわかる。
うちの子、ほんとうに優しい子なんだなあ。
けっこう厳しいことばを投げかける私のそばで、この子は私のことも同じようにじっと守ってきてくれていたんだ。
そのことに今さら気づいて、こんなに健気にひとを守ろうとする娘が愛おしくてたまらなくなりました。
物語の終盤では、枯れ木に花を咲かせましょう〜の前にお花を摘んできて、なにやっとんねん…とつっこみを入れたくなるほどだったけど。(しかも何回も)
それでもこの子なりの激励をゴンちゃんにしたかったんだなって思って、そのあったかさに胸がじーんとなる感動。
大人はつい子供が言うことが浅はかで思慮に欠けていると思いがち。
だから親が導いてあげないと…と自分の意見を入れ込んでしまいがち。
だけどこのくまちゃんのステージを見ていたら、その親の思い入れこそが子供の心を頑なにしている要因になるんじゃないかって感じてしまう。
それが親の愛情だっていうことは百も承知なんだけど。
でも同じ愛情であればもうすこし踏み込んで、子供の気持ちを信じてじっと見守る勇気をそこにプラスしてもいいんじゃないだろうか。
だってみんなの心配をくまちゃんに託したこのステージでは、こんなに素晴らしい感動と子供の成長があったのだから。
みんなちがってみんないい。
金子みすゞの詩のあの一節が、ほんとうに腑に落ちる瞬間だった。
子供はみんなそれぞれに思い、それぞれの形で思いを表現して自分の存在を明らかにしているのだろう。
思い、動き、認められた時にこそ人はひとつ大きくなり次をめざしていけるのだろう。
それを生きる喜びといわずして、なんという。
大人だっておんなじだ。
ここはこういう仕組みですとかっていう暗黙のルールのもと、個人の感情を殺しながら仕事をしていることを平然と受け入れていた過去が私にもある。
大人だったら働かないといけないから。
お金を稼がないと生きていけないから。
ここではスーツを着ないといけない。
ここでは真面目な顔をしないといけない。
私は、私であってはいけない。
そんなどこからやってきたかわからない義務感とルールに囚われて毎日をすごしていたら自分のことがわからなくなって笑顔がどこかに消えていた。
自分が自分らしく楽しんで笑える瞬間。
それだけで、人は本当の自分の人生を生ききることができるのではないだろうか。
私がこの二ヶ月で大きく自信をつけたように。
とても短い間でも人は変われるし、またふたたび喜びの中に生きることができる。
大人が自分にできること。
それは自分には価値があるっていうことを、心から腹の底から認めて生きることなんじゃないだろうか。
自分が自分を認めるようになることで他人が自分を認めるようになる。
すると自分から生まれた子どものことももちろん全て認めて安心して慈しめる。
そうしてやさしさが広がってゆく。
私は幼少期の想いをこじらせていることもあって、自分を認めるのがとても難しかった。
けれどそれを今になってわっしょいわっしょいと寄ってたかって緩めにかかる人たちが現れている。
昨年キラウェア火山でいきなり体感をかんじた感謝というエネルギー。
私の人生ってなに??
と思い、全てのことがらの見方を変えてみた1年間。
くまちゃんのnoteが復活して、心のことを真剣に考えようと思って、人の話を何時間も聞き続けて、自分のことをみつめなおして、自分に今ものこる痛みを感じて滂沱の涙で洗い流し、広大な宇宙の中にいる自分というものを感じた1年でした。
きっといま、その答え合わせを目の前でしてもらっている。
とどきどきとした高揚がとめられずにくまちゃんのステージをすこし高い視座で眺めていました。
あなたは、あなたのままでいい
花咲か爺さんには、幸運ともいうべきいいことがいつも舞い込んでくる。
一方となりのイジワル爺さんには執着が裏目に出るような悲惨なことばかりが起きている。
花咲か爺さんはうれしいことがあったらそれをひとりじめにせず、みんなでシェアして分け合うのだそうだ。
だからまた嬉しいことが起こって、どんどん人がまわりにやってくると。
ふんふん、なるほど。さすがですな、花咲か爺〜!
喜びエネルギーの交歓ってやつだ。
ゴンちゃんの言葉にふむふむとうなずいていたら
「まるで、かなさんのようですっ!」
とふいにゴンちゃんが私に向かって言いました。
いきなり注目を浴びて、お恥ずかしいやら照れくさいやら。
それに応えて拍手をしてくれるオーディエンスの方々。
びっくりするけど、なんというか…誇らしい気持ちでいっぱい。
「いやいやそんなことはないんです」というかわりに、くまちゃんが投げかけてくれた言葉と思いを心の中にいれてみた。
そうたくんにもスポットライトがあたる。
やっぱりふいに自分のことを言われてびっくりしている。
でもこうしてみんなの前で認められた彼は今もなおぐんぐんとそのリーダーシップを発揮して、みんなの先頭に立つことを喜びとしている。
あなたは、あなたのままでいい。
くまちゃんがおりらレイディオの冒頭で伝えてくれるこの言葉。
この魔法の言葉をくまちゃんにかけてもらった子ども達は本当に生き生きと輝き出す。
自分は自分であっていいと認めてもらうことは、こんなにも尊く大事なものなのか。
それを体現してくれるのが黒子のくまちゃんとパペットたちなんだ。
大人が子供にしてあげられること。
しっかりと声にだして存在を認め、一生懸命生きてくれていることに感謝すること。
抱きしめるように言葉をかけて、包み込んで見守ること。
言葉を受け止めて、やさしさで返すと子供は真剣にそれを受け取って心に大事にしまってくれる。
自分の子どもだけでなくてもいい。
ひとりひとりの子どもにそうして丁寧に接することで、私たちはこの大切な宝物を守ることができるんじゃないだろうか。
それをたくさんの大人にも子供にもできるくまちゃんは本当に特別ですごい。
でも私たちひとりひとりの大人たちだって、目の前のひとりやふたりの子どもにそれをすることができる。
一旦スマホを置いて、こどもの顔を見て、大人の目から見たら一見くだらないと思える冗談やクイズや折り紙やあやとりにつきあってあげることがどんなに大切なことなのか。
ステージで子供にまみれるくまちゃんの背中が物語っていた。
子供達が笑える世界をつくろう。
ここにいる全員がそれに賛同してくれていることがわかった。
大人も子どもも関係なく、くまちゃんの呼びかけで花咲か爺さんの灰を撒き、枯れ木に花が咲いている景色を見ている。
大人も子供も同じ目線で楽しむ場をつくる。
それが私の生きる道なんだなあと思って、くまちゃんの去ったステージをぼんやり眺めていたら、トントンと肩を叩かれた。
「ほら見て!虹が出てるよ」
見上げると、うっすらとたなびく雲が虹色に輝いている。
くまちゃんに虹がでていたよって報告したらとっても嬉しそうな顔で
「そうか〜よかったね!祝福だね!!」と言ってもらえました。
この二ヶ月間がんばったね。
そしてこころを見つめた1年間、それ正解だったよって労われた気がした。
このnoteの記事が非常に私の内側からの目線で全体像が掴みにくいと思うので、演者として客観的な目線で描かれたくまちゃんのnoteもご参照にされてみてください。
臨場感たっぷりのラジオも!
宮崎公演の裏話が聴けます✨
この会の参加者さんたちにURLを送りまくったら、全員がくまちゃんのすてきな声の虜になりました。あなたもぜひ、毎週水曜日13時から。