『運が良いとか悪いとか』(12)
(12)
この間の事情を、これまで馬鹿の一つ覚えの
ように繰り返してきた鳥の例えでまた説明し
てみよう。太古の人間が鳥の飛翔に感動した
とき、それは人間という主体が鳥という対象
を評価した……というようなものではまった
くない。
そこで働いている人間意識はむしろ、その鮮
やかな飛翔を見せる生き物と一体化してしま
いその状態を神々しいと感じている。多少で
も客観性のある(とされる)今の言葉に言い
換えるなら
「自分の感動が相手の神々しさと一緒くたに
なっている」
のである。
ところが今度はその鳥が呆気なく他の生き物
の餌食となっている場面を目撃したとき、あ
たかも悪意のある世界がその鳥の神々しさを
打ち消そうとしているように感じる。けれど
もそれによってこそ外界についての意識的な
(観念的な)観察も促される。潜在していた
善と悪の世界観の萌芽が立ち上がる。
メラニー・クラインが乳児のむずかりに見た、
欲求が満たされれば善で満たされないのは悪
という世界観の萌芽は、すでに外界を己の欲
求充足を基準に説明付けるものであり、人間
意識の産物に他ならないが、その後の身体性
の変化(成長)が急速であるために
「人間が意識的に外界に働きかける経験の蓄
積」を欠いて潜在的なものにとどまっている。
ではどれほどの蓄積があれば、この萌芽に過
ぎない世界観が自分の輪郭、領土を自覚する
ようになり、ひいては自立の契機をつかめる
ようになるのだろう?
たとえばまだほとんど受け身の乳児に、善と
悪が向こうからやって来る(折々に出現する)
という世界では、世界の果てというものがな
く、従って世界は決して自覚もされない。
これに対して古代ギリシアの哲学者が世界の
根源は火であるとか水であるとか考えたとき
にはもう明らかに
「世界があってそれが説明されなければなら
ない」
という前提に立っている。
いや、それどころかアジア人から見れば、こ
うした説明づけの抽象性(ぼんやりと世界の
限界を知りつつ、そうであればこそあり得る
一切に迫ろうとする思考の無限定さ)は自分
たちと次元の異なる驚くべきもので、そこま
で思考する自分についての自覚(註5)が押
し詰められずとも、アジア人やアフリカ人の
神話が物事やモノそのものの起源を、思いつ
くまま無造作に並べていくように見えるあの
態度でさえ
「世界が説明されなければならない」
を当然の前提としているのである。
先に、世界観が自分の輪郭、領土を自覚する
と書いたのがこの
「世界が説明されなければならない」
という自覚であり、そこではシンボル思考と
事実認識それぞれの蓄積が或る度合いに達し
て、両者を何らかの説明づけで媒介せざるを
得なくなっている。
身近な生き物に神々しいものを認めるシンボ
ル思考は、他方で事実認識が
「生き物はみな食うか食われるかの現実を生
きているだけだ」
というところへ来るまでには、どうしても媒
介されなくてはならない。
逆に言えば、神々しい飛翔で見事なハンティ
ングを見せるあの鳥が、別の場面では無様に
他の生き物に狩られてしまっても、即座にそ
の言い訳がなされなくてはならない訳では少
しもない。準備が、土台が整うまでは幾らで
も、それらの不都合な(整合しない)シンボ
ルと事実の数々はそのままに放置されるだろ
う。
そうして放置された状態のまま、鳥の飛翔を
模倣して(模倣したつもりで)トランス状態
に至るような者が集団の中に現れれば、これ
が一種の儀式として認められるようになる一
方で、暮らしそのものを安定させ、維持する
ため精神の高揚とは無縁に繰り返される日常
から生まれる工夫や発見……食料の確保や保
存についての知恵や住処を整えるのに役立つ
試みなど……も集団の中で事実認識として積
み重なり、両者(シンボル思考と事実認識)
はそれぞれに少しづつ厚みを増していく。