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『運が良いとか悪いとか』(6)

(6)

今の時代のわたしたちが
「感心、感動」
と名づけるようなシンボル思考を行った(身
体生理の内で異和である観念を抱いた)太古
の人間……或る個体は、傍らの仲間に向かっ
て何らかの発声、あるいは身振りをする。

これは一頭の犬が仲間の犬に向かって向かっ
て吠えるのとは意味が違っている。犬の場合
はそれが威嚇であれ警戒であれ挨拶であれ歓
迎であれ身体反応(素朴なものから高度なも
のに至るまでの身体反応)そのものである。

けれども上記の人間の個体が声を出したり身
振りをしたのは、本来は身体反応ではない感
心、感動を伝えようとして思わずそうなって
しまった、身体を用いるしかなかった、身体
を使ってしまった……という現象なのだ。

そのとき具体的な行動として
「おあ」
と口走ったのか、両手を高く上向きに広げる
動作でもしたのか、それとも一度に両方やっ
たのか、ここでは当てずっぽうに書いて見る
だけだが、問題はそれが当然に伝わらないと
いうことだ。

犬が仲間に向かって吠えるコミュニケーショ
ンでも訴えが上手く伝わったり伝わらなかっ
たりする訳だが、それらは言ってみればポジ
ティブ領域での程度の違いである。しかし人
間意識の(シンボル思考の)コミュニケーシ
ョンの原初は
「上手く伝わらない」
ではなく
「決定的に伝わらない」。
非身体的なものなのにカラダを使って表現し
てしまったのだから。

理屈を辿るとこうなる。その個体が、感心あ
るいは感動の結果生まれたもの(観念)が伝
わると思ったこと自体が、実はすでに観念が
身体性から打ち消しを浴びている証拠である。

もしこの異和(観念)が身体の外からやって
来たのならば、それを他の個体に伝える必然
がない。他の個体もその個体と同じように外
から観念を受け取るか、あるいは受け取らな
いかというだけのことだ。

しかしこの異和は、身体性自らが自分の内に
孕んだものである。そこでこれは発生するや
いなや身体性から打ち消しを浴び、身体的な
もの(反応)に落とされてしまう。それがカ
ラダを使った動作、身振り発声なのだ。

(伝えよう)
と思って身体を使ったのではなく、伝える伝
えないの自覚以前に身体が動いてしまったか
声が出てしまった。するとそれは相方の反応
を呼ぶので結果的にコミュニケーションの場
に引き出されてしまった、というべきである。

従って
「おあ」
と叫ぼうが両手を高く差し上げようが
(違う)
ということは当の個体にも即座に分かるし、
実際にその身振りや発声に接した仲間も最初
キョトンとするだけだろう。

ところが、である。発生と同時に身体性から
打ち消しを浴びる宿命を持った観念(シンボ
ル思考)は、同時にその否定を浴びつつまた
異和として発生しうる。これは打ち消しを浴
びていったん消滅し、しかしまた似た状況で
何度でも発生する(先に花火にたとえた)と
いう形がひとつ。

もう一つは、身体性から浴びた否定を何らか
の形で取り込むことが出来たとき(例えば反
復を通して)には、最初の異和の内にまた異
和がべき乗する。

「おあ」
と叫んで自分でも
(なんだ、これは)
と思い相手もキョトンとするだけで終わるの
が前者だとすれば、後者は
「おあ」
と叫んだあとに
(これではダメだ)
という、自分で自分を抑え込もうとするよう
な表情あるいは身振りが生じ、そこに身体性
からの否定が取り込まれている。

するとどういうことが起こるのかと言えば、
感心、感動ではなく
(なにかを伝え損なったらしい)
(伝え損なったものがあるらしい)
ということが相手に伝わるのである。動物の
コミュニケーションでは成功も失敗もポジテ
ィブ領域にあるのに、人間意識のコミュニケ
ーションは失敗を原初とする
「ディスコミュニケーションの内にあって積
み上げられていくコミュニケーション」
なのだ。

言語も人間意識も、このように
(伝わらない)
ことから始まって、ただ身体性を取り込むこ
とが出来た範囲でだけ
(伝わらないことのうちに何かある)
ことが伝わっていく。あるいは形になってい
く。そうして身体性の取り込みを積み上げれ
ば積み上げるほど伝わるものの領域が拡大し
伝えたいものの領域も拡大する。


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