二題噺
【 キーワード 「尺度」と「入る」】
わたしの会社員時代の話です。昭和の終盤というか1980年代でした。
勤めていた会社では年に一度「年末特別研修会」という名目で関東一円の営業所の職員が、温泉のある町に招待されていました。これは実質の慰労会というか宴会がメインの催しです。
まだ会社に内部留保が沢山あり、われわれ営業マンも
(このくらいのことしてもらって当然だよ)
と思っていた時代でした。
酒には弱いくせに宴会好きなわたしは二三合の日本酒で、いまから思えば実に簡単に浮かれていたものです。また楽しみのひとつには、この集まりで気安くなった顔見知りと再会することもありました。一年に一度この宴会だけで顔を合わせる仲間です。
なかでもKという、わたしより三つ年上の営業マンとは仲がよく、その年も一年ぶりに対面すると大広間の隅っこに陣取ってお互いの愚痴を聞き合い、共通の趣味(渓流釣り)の話で盛り上がっていました。
と、そのときです。ガタイの良い五十がらみの男が体を揺すって近づいて来る。ビール瓶を片手に。
「あ、これはどうも……ご丁寧に」
と、あわてて言ったのはKです。一瞬であぐらから正座に直ってグラスを差し出す彼に、わたしは思わず笑いそうになり、でも何とか我慢しました。
後で聞けば、その人はKが今いる営業所のかつての所長だった人物だとか。
「お固いヒトなの?」
なんとなくそう見えたのでわたしが言うと
「いや、見かけはあんな風だけどたいへんな酒好きでね。酒豪と言うべきか……。けっこう昔は暴れてたって伝説もある」
「ほお」
「そんで苗字が珍しくてサ、✕✕って言うんだ」「え?」
「✕✕!」
まわりが騒がしいので、わたしにはそれが
「ひゃくど」
に聞こえました。
「お百度を踏むっていう……あのヒャクド?」(今だったら、中国の検索エンジンのバイドゥ、ですね)
「違う違う、尺度だよ、シャクド」
「ええ? 『シャクドが違う』って言う、あの尺度?」
「そうそう。珍しいだろ」
「へえ」
「おれも最初、名刺もらって驚いたね。こんな苗字があるんだって」
「いやぁ、シャクドさんか。初めて聞いたなぁシャクドさんって」
「だけどもうこれで、あんたも覚えたろ。尺度さんのこと」
「そりゃまあ、名前だけは」
宴会場を出て部屋に引き上げようというとき、わたしの目はなんとなく尺度さんを探していました。そうして彼の姿はすぐに見つかりました。広間のほぼど真ん中どっかとあぐらをかき、悠然とウイスキーらしき酒をあおっている戦国武将みたいなその様子は
(最後まで残って飲むぞ、おれだけは!)
と言っているようでした。
で、翌朝。朝食のあと幹部の簡単な挨拶があつてすぐに解散です。
わたしとKは電車が途中までいっしょなので、肩を並べてホームに立ちました。小雪がちらついて、でも雲の切れ間からはハッとするような青空ものぞいている。この時点でわたしは昨晩見た尺度さんのことは忘れていました。
が、何とホームからその姿がふいに視界に入ってきました。
「おい、あれ!」
「ん」
「ほら、あの、あそこに立ってるの……尺度さんじゃないのか?」
「ああ、ホントだ」
われわれがビックリしたのは、もちろん単に尺度さんの姿を見つけたからではありません。
昨日同じ温泉旅館に泊まった集団の大半は電車で都心方面へ向かうのですから、いま駅から見えるすぐ近くに尺度さんがいても何の不思議もない。われわれがビックリしたのは、彼がいかにもショボくれた居酒屋(しかも午前中から店を開けている!)の前で(どうすっかなァ……)というように迷っている体だったからです。
(飲むのか、また!)
「なあアレ、迎え酒……か?」
「だろうな」
「だけどなにも……ああいう店じゃなくてもイイような気がするが」
「いや、だから本人も迷ってるんじゃないのか?」
「おお。そういうことか」
「まあ、大きなお世話だけどな」
「あっ、入った! 入ったよ尺度さん」
「……」
大柄な尺度さんがゆっくり店のなかに消えて行くと、Kはわたしの肘をつついて言いました。「あんた、一句読みなよ」「あぁ? なに」
「俳句、じゃなくて川柳か。それを一句読んでみなよ」
(なんでおれが川柳なんか……)
と思いましたが、この驚くべき光景を目撃して、わたしも多少はユカイになっていたので「じゃあ五分くれ」
とKに言いました。
電車は間もなく入線するとアナウンスがあり、乗ってからも少しは考える時間をありそうでした。ところが何故か電車がすべり込んでくる直前に一句浮かんだのです。
「出来たぞ、おい」
「早いな」
「いいか、言うぞ」
「言えよ、早く」
「尺度さん 入る酒場に 尺度なし」
Kはほとんど声には出さず
(かあーっ)
というような息をして天を仰ぎました。それが称賛だったのか軽蔑だったのか、実は今もって分かりません。二人はそのままやって来た電車に乗り、四人掛けの席の窓側に向かい合って座るともう話もせずに、眠りこけました。(了)
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