『フリーダ 愛と痛みを生きた肖像』実話版 哀れなるものたち
ブニュエルの作品、文献をたどっていると、
シュールリアリズムのグループ、ダリ、ブルトンとの関係が記述されているケースが多い。
そのあたりでよくニアミスするのが「爆弾を巻いたリボン」のフリーダ・カーロ、
最近だと「哀れなるものたち」のモチーフとビジュアル。
本作は単なる画家の生涯を追ったドキュメンタリー作品にとどまらず、
シュールリアリズムと南米のマジックリアリズムが織りなす、
比喩と象徴の壮大な物語でもある。
フリーダの自画像群は、単なる自己表現を超え、
メキシコの土壌が生み出した、
あるいは、
夫や親族を含めた奔放な愛、自由なセックスが生み出した、
独自のシュールさを超越したマジックリアリズムを体現している。
フリーダの肉体的な苦痛と快感と精神的な葛藤は、
鮮やかな色彩と奇想天外なモチーフを描き表現する。
これは、シュールリアリズムが現実と非現実、
意識と無意識を融合させる手法と軌を一にする。
しかし、フリーダのマジックリアリズムは、
師匠のようなブルトンを避け、
夫であるディエゴも嫌悪し、
ヨーロッパの芸術運動を模倣したものではなく、
むしろシュールリアリズムを超越する。
彼女の作品には、メキシコの民族衣装や宗教的なモチーフが頻繁に登場し、
南米のマジックリアリズム特有の現実と幻想の混淆が見られる。
特に、事故で損傷した身体を題材にした作品群は、
カーロの肉体と精神の不可分性を象徴的に表している。
これは、マジックリアリズムがしばしば扱う、
人間の身体と自然、
あるいは歴史との不可思議な結びつきを想起させる。
カーロの自画像は、単なる肖像画ではなく、
彼女の魂の風景であり、メキシコの歴史と文化が凝縮された鏡とも言える。
本作は、カーロの生涯を辿ることで、
彼女の芸術がいかにメキシコの右でも左でもない民主主義や女性解放運動といった社会的な文脈と,強く関係していたかを暗示していく。
彼女自身の背骨の痛み、麻痺している指先、
手術が必要な身体と、
メキシコの国情が深く結びついていた表現を浮き彫りにして、
最後にフリーダの愛と痛みを生きた言葉で終わる、
希望の木よ強く立て。
私は世界一のCACA大物になるでしょう・・・・
フリーダから見れば、
哀れなるものたちは、
国や男たちのようだ。