クリープハイプなら見つけてくれる、そんなことはもう知っていたはずなのに
大好きな企画が帰ってきた!でも本当にごめんなさい、調子に乗って書きすぎました。死ぬまで一生愛されたいと願うならこのくらいのことは飲み込んでもらわないとね、そんな驕りが1万字という文字数から臭って仕方ない。でも、どれも尾崎さんに話したかったこと。中には読んだらすぐに忘れて欲しいものもあるけれど、とにかくそんなことを書いた。読んでくれたらそれだけで私は本当にすごく嬉しい。
3年前に前作のライナーノーツを書いた時、私はどつきたくなるくらい仕事ができなくて、どつきたくなるくらい愛嬌のある同い年の営業マンと共に新居を探している最中だった。日記を見返せば、年末までに決めなきゃいけないと伝えてあるはずなのに全然連絡をよこさないそいつに対しての暴言が連日書き殴られている。そしてそんな年の瀬をなんとか乗り切るとライナーノーツが最優秀賞に選ばれた。それを知らせるメールには「厳選なる抽選の結果、」と書かれていた。どつきたくなるやつばかりだと思った。嘘です、抽選だろうが何だろうが嬉しかった。
不動産屋のそいつは今でも年末年始になれば必ず連絡をくれる。なんで今やねん、その律儀さはあの年末に発揮されるべきだったぞと言いたかったけれどそいつにはそういう愛嬌があった。神様が私には付与してくれなかったそいつのそんな愛嬌が本当に憎らしかったけれど、その愛嬌のせいで嫌いにもなれなかった。そして今、そんなそいつとふたりで内見に来た家に私は住んでいる。
それからの3年は、新しい生活を築くことで精一杯だった。浸水に怯える生活から土砂崩れに怯える生活に変わり、毎日坂道を登ったり下ったりしなければならなくなった。カーテンを買いに行く時間もなくて3枚のバスタオルが窓辺でたなびいた。当然バスタオルが足りなくなって、私は毎日洗濯機を回した。
3年という間隔が長いのか短いのか、それは人それぞれの感覚があるだろうけれど、私の感覚だと素晴らしく心地の良い間隔だと思っている。というのも、人の人生はすぐに佳境に入りたがるからだ。
人生が佳境に入ると、大抵余裕がなくなって周りの一切に構っていられなくなる。追いかけていたものが追いかけられなくなり、ダンボールは開封されなくなり、積まれた本が1年間動かないまま、なんてことが当然になってくる。リリースが溜まっても、全然聴けないまま時間だけが無情に通り過ぎ、やっと聴ける体勢が整った時には季節が一周回っていたりする。
「追えてない」という感情は、どうしてこんなにも自尊心を削るのだろうか。好きだったものが人生の忙しさに追いやられて、その上に日々の雑務がどんどん重ねられて、遂には好きなのかどうかさえも分からなくなる。戻りたくても、どこまで戻って、どこから追いかけ始めれば良いかがもう分からなくて、投げ出したくなる。知らない曲調に戸惑って、でも大好きな声は変わってなくてふとセンチメンタルになったりする。感情が、クリープハイプの楽曲を勝手に過去の思い出コーナーに仕舞おうとしてくる。
そんな時、アルバムさえ出していてくれればそこに戻れるという感覚がある。元々アルバム単位で追いかけていたという過去があるからこその感覚なのかも知れないけれど、アルバム発売という大きな潮流にこれまでの流れが一旦集約してくるイメージがあって、ここからまた追いかければ大丈夫だと思える。
だから、クリープハイプの7枚目となるアルバム「こんなところに居たのかやっと見つけたよ」の発売が発表された時、あ、戻れるって思った。久しぶりに実家に帰れる、と言い換えても良いかも知れない。
実家が安心できるのは、実家にちゃんと誰かが住んでいて、実家がちゃんと生きているからだ。
パンもお米も洗剤も切れたら新しく補充されて、毎日水が流れる風呂場があって、毎日電気がつけられるリビングがあってという、その生活に人は安心を感じるのだと思う。ちゃんとコンスタントにアルバムを出してくれることはそういう安心に似ている。
そして、またもう1度書きたいと思えること。もしかすると、その感情がいちばん嬉しいかもしれない。クリープハイプに対する感情がまだちゃんと熱を持って生きているということが。
またあの年末がやってきた。毎日尾崎さんの声がラジオから聞こえてくるあの年末が。年末と言えばクリープハイプだろう。ただいま、クリープハイプ。
ままごと
「おかえり」で出迎えてくれるままごとのAメロを聴いて、ただいまで合っていたのだなと私は再び安心する。私にとって、アルバムの先頭曲の超優等生は「凛と」で決定していたはずだったがままごともなかなか負けてない。まるで謎の転校生が突然現れたかのような魅力がある。
実際のところ、尾崎さんはアルバムの1曲目感のあるメロディを作るのが得意なのだろうと思う。子どもが原っぱを駆け回っているような、無邪気に幸福を放つメロディが、ごく自然に生まれているように思えてならない。
そのことを強く感じたのはエロを初めて聴いた時で、あの瑞々しく乱反射する真夏のプリズムのようなメロディが尾崎さんから生まれたんだという事実に本当に息が止まりそうになった。ポップな楽曲が好きだという自覚があったし、クリープハイプが好きな理由のひとつもそのメロディに起因していることも分かっていたはずなのに、エロは次元が違った。そしてあの歌詞で再び呼吸困難に陥る訳だけれど、そもそもあのテーマが設定された経緯の中にメロディに対する照れのようなものが含まれているように思えてならなくて、だとしたらその照れはかなり美味いタレですよね?というような、つまりエロは鰻が無くても十分美味しい、みたいな曲だと思っている。
そんな私の二次創作はさておきままごとに話を戻すと、相変わらず曲の中の彼女は怒っていて、相変わらずいつも通り許していて、なのにやっぱりどうしても「唇はまだ早いからここにね」を素通りできなくて、群衆に向かって手を振るミッキーマウスに対して、別に私に向かって振ってる訳じゃないけど振り返してしまう時のような気持ちになったり、こんな序盤で響かなくったってと言いながらページに付箋を貼り付ける時のような気持ちになったりしている。
人と人と人と人
メロディの後ろで歌うギターが気持ちいい2曲目の人と人と人と人は、本アルバムのメインビジュアルにいちばん近いイメージを持っている感じがする。それはきっとモノクロのMVとアートワークが重なるという単純な結論付けなのだろうけれど、バンド自体がそもそも人と人と人と人で成り立っているからというのもその理由かもしれない。4回繰り返された「寂しい」という単語にどうしてこうも恋慕してしまうのか。
先日、そのアートワークを手掛けた寄藤文平さんがパーソナリティを務める渋谷のナイトというラジオ番組内で寄藤さんの口から尾崎さんのかっこよさについて考察される場面があった。優しい話し振りで次々と開かれていく的確な指摘には、まるで裁判の終盤に訪れる勝訴を確信させる演説のような説得力があった。私は本当に嬉しくなった。それは、私には見えてるのに世間になかなか信じてもらえない「尾崎さんかっこいい」の実存が証明された歴史的な瞬間だった。
そしてその黒と黄色のビジュアルはなんだかロックンロールというやつが元気に暴れ回っていたあの鬱陶しくて愛おしいような2000年代をどうしても私に思い出させ、この曲はそんな私の愛おしいロックを真正面からもう一度引き受けてくれるような頼もしい曲にも聴こえてくる。
ロキノン系という言葉は現在では死語らしい。死んだなら「ロキノン系だから」という理由で忌避されるということもなくなったのかなと思うとそれは喜ばしいことのように思える。まるで隠れキリシタンのようにクリープハイプを聴いていたあの頃は言われてみれば「ロキノン系だから」という迫害が確かにあったかもしれない。
青梅
クリープハイプの夏曲はビーチ・ボーイズに勝てると思う。エロはもちろん、ラブホテルも、リバーシブルーも、そしてこの青梅も、負けないくらい爽やかで開放的なメロディーを持っている。もう少し素直な性格でもう少し真っ直ぐな歌詞を書いていたら間違いなくビーチ・ボーイズのようなバンドになっていただろうし、ポール・マッカートニーがもし今14歳だったなら絶対クリープハイプを聴いてただろうと思うけれど、もしそうなら私は尾崎世界観の文字列に固執することもないまま別のバンドを聴いていただろうなとも思う。尾崎さんの性格が捻くれていてくれて本当に良かった。
これまでの夏の楽曲は真夏の真ん中を駆け抜けていたけれど、青梅は8月に見上げた青空に浮かぶ9月の雲を見つけた時のようなセンチメンタルを含んでいる。2曲目とは対照的な打ち込みのビートもバンドの音と尾崎さんの歌声と上手に混ざっていて心地が良い。
中身がどれだけ捻くれていても、私の耳に向かってまっすぐ飛んでくる声が可愛くて愛おしい。いつもより低くてささくれた歌声が、琴線に引っかかってこんがらがってもう解けそうにない。尾崎世界観が存在する限り私は永遠に青いうめぼしだなと思う。
生レバ
レバ刺しが好きだったし生ユッケが好きだった。あれば頼むし無ければ行かない、みたいな感じでそれなりに好きで、ちょうど食べられなくなる直前は店の生食用牛肉を食べ尽くすかの如く注文していた記憶がある。自分でもよく生きてたなと思う。遂に禁止されて、好きなのにどうして別れなきゃいけないのと泣きついた先は馬刺し、そしてレバテキだった。本当に、「たまにはサッと炙って焼いてでも生レバ食べたい」は私の切実な心情そのものなのである。
強引に煽っていくようなオラついた曲調の生レバだけれど、それっぽさで押し通さないところが流石15周年という感じがある。雰囲気を淡々と技術で組み立てる姿に、怪談話を頼まれればきちんと怖がらせられる落語家のような実力を感じる。
そして今でも焼肉屋のメニュー上にそれらしきものを見かければ必ず頼む。もしかしたらもう一度会えるかもしれないという期待を込めて。私の所感だと美味しいとこれじゃないが半々といったところだけれど、きっとそれが生まれたきっかけとして誰かの生レバ愛があったのだろうなと思うとそんなレプリカも愛おしく、応援したいような気持ちになる。
だけどもし願いが叶うなら、いつかあの魅力的な暖簾をくぐってみたい。
I
私はこの曲を平熱で聴くことができないし、18回も繰り返される「好き」に向き合ってしまったらもう戻ってこれないような気がして怖い。Iを聴く時、私はひとり崖縁に立ってその地平の間を見つめている。
本当はこんなに好きになるはずじゃなかったのにな、と思う一方で、やっぱりそうだよなとも思う。
2011年のある日、小さな画面の中でHE IS MINEを歌う小さな尾崎さんを見かけた時、この人には近づいちゃダメだと直感的に感じたことを今でも覚えている。こんな強度で誰かに惹かれるなんて初めてのことで、怖かった。
それからの私は両手で顔を覆ったその指先の間からクリープハイプのMVを見て、これはBGMだからと自分に催眠術をかけながら曲を流した。MVとアルバムだけという制限をかけ、私のクリープハイプは長いことKEEP OUTと書かれた黄色と黒のテープでぐるぐる巻きにされたままだった。
そのまま10年が過ぎたある日、いつものようにキッチンに立って、いつものようにクリープハイプを流そうとした時、急に何か思い立つような感じでもう大丈夫かもしれないと思って、そのベタベタになったテープを剥がした。
Iを聴くその時、ああやっぱりまだ早かったのかな、と思う。Iの歌詞の最初から最後までの全部が私が尾崎さんに対して思っていることに違いなくて、郵便受けに届いた手紙の封も開けずにそのまま送り返してやりたい気持ちになる。私はまだこの曲を受け取れない。クリープハイプと私の間にはまだ穴が無いと怖い。尾崎さんへの好きがエンターテイメントの域からはみだしませんように、新しい規制線を引きながらそんなことを思う。
インタビュー
「燃え尽きて消えつきたのにでもまだある」「ダサいから隠すけど君にだけバレたい」これだよ、これこれ!と言いたい。ふてほどの小川市郎もしくは猫田、どっちでもいいけどとにかく野球帽を被った阿部サダヲが私の脳みその中心で「集合!」を叫んでる。これが私の尾崎さんを好きな理由ですよと。尾崎さんは誰の目にも留まらない感情を捕るのが今日も上手い。インタビューは私に「私だけじゃなかった」をくれる。そしてそんな感想もクリープハイプファンの間ではお馴染みのものなのだなと気づいた時、本当に私だけじゃなかったんだと思った。
そう思ったのに。じゃあどうして大人数の飲み会はいつもつまらない会話に終始するのか、とも思う。もうちょっと先の話がしたいのにな、と欲張ってしまう思考のその片隅でその「私だけじゃなかった理論」を引っ張り出して、相手も同じようなことを思っているのではという勝手な期待とともに投げ込んでみれば大抵いつもうまくいかない。そんな時、クリープハイプがバズらない理由はここにあります!、とひとりクリープハイプのせいにしている。
別に有名人でもないのに
不倫の件で謝罪する衆議院議員の頭頂部を見て思うことは、ただただどうでもいいという感想だけだ。その頭頂部はそちらの奥様とお子さんに披露していただいて、許す許さないはそちらのご家庭内の問題で全く関係ないんだけどな、あたし、と思ってしまうのだけれど、この考え方は浅慮なのだろうか。本質的にそちらのご家庭以上の問題が発生する不倫は果たして存在し得るのか?とさえ思う。
その一方で、新しい解釈を作るのは楽曲の前のあなたたちですという爆笑オンエアバトル的解釈が許されるとするならば、生レバは私から生レバへのラブソングであり、べつに有名人でもないのには生レバから私へのアンサーソングだと言える。
だけどきっと活動再開したら燃えちゃうだろうね、あなた。
なんてったって人を殺しているのだから、あなた、しかし。
燃えれば会える、確かにそれはそうかもしれない。でも燃えたら全く意味がない。だってあなたが活動再開せずともレバニラにはいつだって会えるのだから。クリープハイプが活動休止したらそれこそ代わりがないなと思う。レプリカなんて認められない、生レバどころの騒ぎじゃない。生クリープハイプを取り上げられたら私は一体どうなってしまうのか。だからどうか燃えてくれるな、推し。
星にでも願ってろ
いよいよ隅に置いておけないという感じの星にでも願ってろ。夏休み明け、髪を短く切った同級生が気になって仕方がない、というような。あいつ、あんなに可愛かったっけ?とあえて聞こえる声量で呟きたくなるほど私好みのバンドアレンジ。やさぐれたギターと追い立てるようなドラムに私の中の何かが煽られて熱が増すのを感じる。
アルバムが発売された時、すべての曲を均等に聴いているはずなのに無意識に口ずさんでしまうのはいつもカオナシさんの曲だ。朝にキスもしらすも気づいたらよく歌っていたけれど、月の逆襲、かえるの唄、火まつり、グレーマンのせいにするは本当に昔からずっと、今でもよく勝手に口が歌っている。きっと私の唇は熱烈なカオナシファンなのでしょう。
そしてこの曲の態度がもし間違ったものだったとしても、私はこの歌詞の全文にストレートに共感する。指ごとくれませんかって思いさえしないと、指先どころか視線さえ交わらない現実に耐えられない。青空を見上げながらあの人のところも晴れているかしらと考える、そのくらい広大な距離の開いた関係の中を生きる好意は「孤独に寝てますように」と願うことでなんとかやっと自らの命を維持している。どうせ届くわけない、その冷たい現実から逃れたい。結局のところこんな無謀な片思いなんて私の勝手な趣味でしかない。そんなこと分かっている。だけど、そんなどこまでも一方通行で可哀想な片思いをどうにか慰めでやりたくてせめて「孤独に寝てますように」と呟く。匂わせの圏外で頑張って好きでいるんだから、そのくらいのことは許されたい。
d m r k s
ふざけたメロディにふざけた音、そしてふざけた歌詞。聴いてすぐに思った、私の人生のテーマソングだと。私が死んだらお葬式でd m r k sを流して欲しい。私の人生もこの曲のように意味なんてないんだから。
「こんなことなら」の繰り返しでここまで生きてきちゃったなと思う。その度に期待するからいけないのかなとも思う。期待通りに行かなかった時、「こんなことなら」と思う。だから社会に馴染めない。他人が介入しなければ「こんなことなら」と思うことはない。だけどじゃあひとりで、という幼稚なわがままも言っていられない。私は社会に適応するために私のおこがましい期待なんて応えられなくて当然だと考えを改める。そうやって正常な大人の振りをして息を止めながら毎日を生きている。
それなのに、私が殺したはずの私のおこがましい期待にクリープハイプはいつも応えてくれる。11月16日もそうだった。不満が出るのはその前に期待があるからだ。あの日、あの場所にいた全員の「こんなことなら」を一瞬にして取り上げた尾崎さんは見事だった。だからせめて、今度は私が、尾崎さんのそのおこがましい期待に応えたい。そう思ってこれを書いてる。
喉仏
クロスワードパズル、ルービックキューブ、テトリス。喉仏を聴くとそういうゲームを楽しんでる尾崎さんの姿が浮かぶ。と同時にこの曲はたまにやってくる「尾崎さんとは絶対に喧嘩したくないな」を思い出させてくれる。反論の余地の無さみたいなものが曲に滲んでいる。けれどその中でもちゃんと「これ言ったら終わるな」という葛藤も存在しているような気がしてその"人の心"に少しだけ安心する。尾崎さんの声帯と鼓膜に張られた網目はどれほどのものだろうか。言葉が逃げてゆくその隙間をこの目で確認してみたい。その網目のゆとりから滲んでいるであろう大人の優しさをこの胸に感じてみたいと想像する。しかし、それなのにこの異様に優しい歌い方に体が緊張するのはなぜなのか。
そんな不穏な胸騒ぎは終盤の「今ならまだ間に合う?」で確信に変わる。ああやっぱりダメか、ああ、この「逃さないから」の言い方よ!私はしらす漁に使う網を想像しながら思う。これだから尾崎さんとは喧嘩したくない。仏の曲なのに鬼がいる。地獄の果てまで追いかけてくる外れの阿弥陀が。
本屋の
坂道のある生活がなんとなく体が馴染んできた今年の春先、私はやっと机を買った。食事に使うテーブルとは別の、その安い値段にふさわしいガタつきを持った白い書き物机を。私は毎朝鳥たちが歌い出す前に起きて、その机に向かって文章を書いている。3時間かけてその時間に全く見合わない雀の涙ほどの量を書いて、その少なさに落ち込むところから1日が始まる。私は残りの21時間で今朝書いたばかりの文章の感触を労働の片隅で確かめている。
言葉はなんでもできるから好きだ。世界を救うけど、誰かを騙したり、操ったり、そんな底知れない魅力に私は惹かれる。言葉は映画の終盤で必ず悪党の手に渡ることになる最強の武器で、言葉は必ず全員に配られる保健だよりで、その柔軟性が私は好きだ。
本屋にはそんな可能性に満ちた魔物がたくさんいる。私は美術館や映画館、動物園、水族館、そして植物園に行くような気持ちで本屋に行き、人生の行き止まりに着いてしまった時には新しい地図を探しに本屋に行った。尾崎さんと同じように子どもの頃から本屋に通い、発売日にハリーポッターを買いに行ってはもったいないなと思いつつも止められなくて結局1日で読み切ってしまうような子どもだった。色んな関連書が発売されて、でも買えないから本屋に通ってそこで読んだ。ゴールデンレトリバーが部屋の隅で寝ている友達の家みたいなあの本屋の2階で。その本屋は今はもうない。
もちろん今でも本屋に通うけれど、やっぱり買わない。でも今はもう買えないからじゃない。部屋で積みっぱなしにしている本たちの顔がチラつくからだ。どこかから「あたしを読みなさいよ」の声が聞こえて私は手に取った新品の女の子を思わず本棚に戻す。そして何も買わずに彼女たちの待つ部屋に帰る。
尾崎さんが本屋が好きというそれだけで私は嬉しい。私は今日も書いている。1曲で2ページしか進まないそんな遅さで。本屋のはそんな私の生活を写し取った私のための曲だ。
センチメンタルママ
本作には色んなメーカーのバニラアイスが収録されているけれど、特にお気に入りのバニラ味がこのセンチメンタルママ。センチメンタルママのバニラがいちばん美味しい。ミルク感強くてしっかり甘いけれど、後に残らないすっきりさもある。ドラムは発熱した時の鼓動の速さのようで、ベースはちゃんと心配そうな顔でそばにいてくれる。ギターだけはまるで他人事かのように軽やかで、その関係性も私は個人的にすごく気に入っている。
テーマを遠くに飛ばさない素の歌詞の新鮮生乳絞りたて感が美味しい。36.3度の個人的な温度を思わせる「.3」はもちろん好きだし、「悪寒」をみんなが見えるところに置くその親切さも大好きだけど、いちばんのお気に入りは「鼻詰まり鼻水くしゃみ咳吐き気独特の倦怠感」。まさかの塩バニラ!メロディの甘さと歌詞の塩っぱさのこの絶妙なバランスよ!その次の頭痛、腹痛、喉の詰まりのメンバーの中に大抜擢されたとどのつまりの「ここはどこ?」と戸惑う姿も大好きだし、しかもそれでちゃんと日本語として成立しているところに尾崎さんの気概を感じる。
実際は風邪のことを歌ったこの曲だけど、「ねぇいいからしばらくほっといてもう何もしたくないの」から始まるサビはかなり実用的な歌詞なんじゃないかと踏んでいる。今までに幾度となく経験し、そしてこれからも何度も直面するであろう普段の何気ない生活のほつれみたいな場面でささくれる色んな感情を受け止めてくれそうな予感がある。
もうおしまいだよさようなら
みちおさんの笑顔に感じるあの不穏な感情のようなはじまりから一気に高円寺感溢れるメロディーに展開していくもうおしまいだよさようなら。
「たった一駅分の優しさで愛せてるとでも思ってた?全然歩ける距離が恥ずかしいそっと引き返す2番線」で隣駅の中野に思いを馳せながら、私は改めてクリープハイプに恋をするような気持ちになる。
太客倶楽部のコンテンツにある、98ちゃんねると名のついた掲示板を眺めるのが好きだ。そこにはホッカイロのようにじんわりと温かく、思いやりに溢れたコメントが並んでいる。最初はコメントを書こうと思って掲示板を訪れたはずなのに、そこに並んだものを読んでいると共感できる想いばかりで、これだけ愛されてれば大丈夫かという謎の感慨に落ち着きいつも何も書かずに終わる。
布川さんの姿を見る尾崎さんの心にも、俺が怒らなくても大丈夫かという謎の感慨が起こったりするのだろうか。「泣かないで、笑ってくれ」と歌う声を聞きながらそんなことを考える。
「オンバト、誰が好き?」小学生だった当時、私とその子だけにしか通じない話題の中で聞かれるその質問に、私はいつも「ラーメンズ」と答えていた。しかしそんなラーメンズもやがて番組に現れなくなってしまった。そんな中でとろサーモンの初オンエアを見た時、これはと思った。オンエアを見る度にこれだと思って、遂には馬糞の匂いに包まれる極寒の大井競馬場で唇を噛むほどまで応援していた。2017年、私はこれまでの人生の全てが報われたような気がした。今年、トム・ブラウンもきっとたくさんの誰かの人生を救っていることだろうと思う。
その状況にとっていちばん意味の遠い、草超えて森とかの繋がりのずっと向こうの倫理の彼方にある宇宙の裏側のような言葉を見せてくれるお笑いが好きだ。
あと5秒
この曲の少し引き摺った歌い方が大好きで、「刺さった 心に」の「た」から「こ」の移行に悲鳴を上げ続けている。もう少し公共性と社会的態度のある話し方をすれば、完成度が高すぎることにより共感よりも嫉妬が勝つあと5秒。美味しいよりも美しいが勝つフレンチ料理のような曲だと思う。キケンナアソビを初めて聴いた時にも同様の美しさを感じた。広告に置換された言葉の後ろに楽しそうな尾崎さんが見えるけれど、言葉遊びに留まらずストーリーがしっかり組み上がってるところが凄い。選ばれた言葉たちが曲中を楽しそうに駆け回っている。
けれどもそんな中で私にとって会心の一撃となったのは「最後のコンビニでいちばんいらないものが欲しい」というストレートな文章だった。思えば「一段低いところに置き換えたシャワーが」で食らったあのパンチと同じ痛み方をすることに気づいて、もう一生勝てないという悔しさの中にでも嬉しいというような気持ちが広がった。
実が膨らんでやがて種子が弾けるように、一瞬で通り過ぎるたったの一節で膨大な情報と心情がブワッと広がる、こんなに大きなエコバックだけどこんなにコンパクトになるんですというような、そういう歌詞が書けるところが凄い。この曲を聴く度にもう本当に凄いって思うし、曲に閉じ込められた私のフェティシズムに私は一生叫び続けている。
天の声
自らの声を「変な声」と揶揄する時、その言葉は私の頭上を飛び越えて行く。その声は話を聞かずに後ろの席で騒いでいる生徒に向かって放たれ、前方の席に座る私はその度に窓辺で膨らむクリーム色のカーテンを眺めたり、ノートに書き込まれたポイントの文字を囲む括弧の装飾を豪華にしたり、時々先生の台詞に頷いたりしながら時間を潰す。後ろの馬鹿がいつまでもうるさいせいで真剣に話を聞いていた真面目な私はいつも同じ話を何度も聞かなければいけない。でも実際、そいつらが騒げば桶屋が儲かる。だから私は何も言わない。というか何も言えない。
天の声はそんな私のための授業がやっと再開されたと思える曲だった。尾崎さんの視線がやっと前方に下りてきたというような。色んなすれ違いを仕方ないで片付けられない尾崎さんがやっぱりどうしても好きだ。
光が差し込むためには暗い部屋が必要だ。この曲は暗い孤独をちゃんと持っている人の部屋にだけ差し込まれる光のような印象がある。いくら重たいカーテンを引いたとしても光は差し込む。もう令和なのだから。液晶画面という窓から差し込んだあなたの声に私は一体何度縋っただろう。誰かを救う希望の光もまた孤独なのだと歌う声に36.3度の温もりを感じてならない。
ここに書くのがかなり恥ずかしいくらい個人的で思い切り骨を押すような解釈を言うとすると、聞けば聴くほどファンに対する「さっきはごめんね、いつもありがとうね」が聞こえてくるような気がする。そしてその度にまるでままごとの中の彼女のように(歌にしちゃうんじゃんかわいい人だな)なんてことを思ってしまう。この曲を聴く度に、本当にひとりひとりの中に色んな解釈が生まれ得るゆとりのある曲だなと思う。
聞き手の中で物語が勝手に動く曲こそ良い曲だろうと思っている。決して上記のはいい例ではないけれど、事実、自分だけの思いでカスタマイズされた曲の方が愛着が強い。なのに、無名のファンの不格好な物語は「それ尾崎さん言ってません」で燃やされ、インタビュアーから発された見栄えの良い物語は「良いですね」と尾崎さんに判子を押してもらって採用されるという状況が私は少し寂しい。
尾崎さんのもっと音の奴隷だと言いたくなる気持ちも分かる。その究極の主張が生レバであることも分かる。尾崎さんの反論を聞く度に私は折れ線に沿って折ってもらえなかったくしゃくしゃの折り紙のことを想像する。勝手な解釈が拡散されればされるほどどんどんクーラーの設定温度が下げられていくような状況に私だって耐えられないし恥ずかしい。現実もボタンをひとつ押せば消えてくれてるエアコンのようならどれほど楽だろうと思う。でも実際には、ボタンを押さなくても自動で怒る尾崎さんがいる。そして私はそんな現実を気に入っていたりする。
けれども。それでもやっぱりそういう中でも自分と曲との関係の中で完結するのならどれだけ不細工な解釈だろうが愛されて欲しいとも私は思っている。自分で見つけることでしか発生しない感動があるだろうし、自己弁護に聞こえるかもしれないが結局のところ、私は行間に貪欲なはしたない人の性が好きで、お墓の前で泣いちゃう人が好きなのだ。
曲の中に潜ってそこにある物語をなぞらないとそれは動き得ない。解釈が生まれると言うことはそれだけ曲に触れているということだろうと思う。そしてそれは、どうしたって愛なんじゃないかと私は信じている。
ああついに最後の曲を書き終えてしまった。クリープハイプのことで頭が埋まるこの企画が私は大好きだ。年末の寂しさと焦燥感を毛糸でぐるぐる巻きにしてくれるこの企画が。そしてその糸を使って一気に編み上げたこのマフラーをクリープハイプにプレゼントしたい。少し長すぎたかもしれないけれど、これで寒さと寂しさが少しでも紛れたら嬉しい。
子どもの頃、かくれんぼで隠れるといつも見つけてもらえなかった。どうやら私はみんなより真剣に取り組みすぎるところがあるようだった。
「こんなところに居たのかやっと見つけたよ」
クリープハイプはそんな私をちゃんと見つけてくれる優しい鬼だ。
本当はまだまだ話したいけれど、流石にもうおしまいだよさようなら。気になる続きはまた次のアルバムで。
今年も本当にありがとう。そしてどうか良い年の瀬を、クリープハイプ。