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台風の日に(創作)

 「この季節になるとなぜかいつも無性に聴きたくなるバンド」そんな歌詞が出てくる曲があったな。雨が降ると無性に聴きたくなるバンドがある。その歌詞を歌うバンドとは違うけれど。台風が来るだなんて、知らなかった。私は何も知らないで、不動産屋に内覧の予約を入れた。管理会社に確認を取ってもらい、見に行きましょうということになった。引っ越しを、私は本当にするのだろうか。まだ雨は降らない。「明日はお天気が悪いとのことですので、もしよろしければお天気の良い時に、改めませんか。もちろん気にされないようでしたら明日でも構いませんが。」そう連絡がきたのは昨晩の夕飯を食べている時だった。私には食事中にテレビを見る習慣は無い。私は物件にまつわる希望条件として日当たりを一番に上げていたから、その事を考えてくれてのことだろうと思った。しかし、できるだけ早く内覧には行きたい。別に実際に見て確認したい程日当たりに拘っている訳でもない。それで、多少の雨だったら行ってしまおうとそのような返事を書きかけて、その際に一応天気予報を確認したところ、台風の情報に行きついた。私は書きかけの文章を全て消して、「そうですね。延期にしましょう」とだけ送った。トーストを焼いている間に電気ポットでお湯を沸かす。薄い煙の立つフライパンに卵を割って落とす。じゅうっと白身が泡立つ。強めの中火に落として、少し裏が焦げるくらいが美味しいと思う。お湯が沸いたらドリッパーに静かに注ぎ入れる。はじめは全体を湿らす程度に少しだけ。そのまま勘で20秒蒸らす。トーストは、耳がカリカリの方が好きだから、自動に設定された時間よりもやや長く焼く。焼き上がったら熱いうちにバターをのせて、パンの熱で溶けたそれを全体に染ませる。その上に目玉焼きをのせて、塩と粗挽き胡椒、それから醤油を少し垂らす。最後に冷蔵庫から牛乳を取ってきてマグカップに注ぐ。今日はミルク多めの気分。土曜日の朝の9時。まだ雨は降らない。これだったら行けたのではないか。そんなたらればは考えるだけ無駄と分かっていながらも視線は曇りガラスから入る光を見ている。今日はやることがない。頭がぼんやりする。昨日は美容院に行ったから帰宅した後頭を洗っていなくて、それがすごく気になる。トーストを齧ってミルクコーヒーを啜る。私には食事中にテレビを見る習慣は無い。また齧って、また啜る。また齧って、また。私は一心に食べる。私はいつも一心に食べてしまう。食べるのが大抵の人より早くて、いつも食べ終わった後にしまったと思う。しかし次の食事の時にはもう忘れてしまっている。9時15分。まだ、雨は降らない。
 追い焚きボタンを押して、フライパンを洗う。浴槽に湯を張ったのは確か一昨日で、私はそれ以上考えないようにする。だってまだ1度しか浸かっていないし。今日は頭がぼんやりする。防水のスピーカーを持ち込んでお湯に浸かる。細く開けた窓から雨が見える。台風が来てくれた。よかった。「さよならの雨がパラパラと降る予報です」雨が似合うバンドは雨を歌う。失恋を歌う。未練を歌う。イントロがあの曲に似てると思う。私はお風呂に入った時に歯も磨くから、お風呂場に歯ブラシ立てがある。ここに置いてはうまく乾燥させられないとも思うけど、それについては深く考えないようにしている。2本あるうちの1本を取って、歯磨き粉をつける。それを口に咥えて、もう1本の方はもう捨てようと思う。あなたはもう来ない。私はお湯に浸かっている。雨を見ている。あなたは元バイト先の先輩で、2年近く一緒に働いてきたけれど、うちに来るようになったのは最近のことだったなと思う。口の端から泡立った歯磨き粉が溢れる。初めて来たのは私がバイト先を辞めた日で、その日は最後の出勤の後、親しいバイト仲間が集まって小さな送別会を開いてくれた。居酒屋を出ると雨が降っていて、私は天気予報を見ないから、傘を持っていなかった。あなたはなぜか明らかに女物の花傘を持っていて、その似合わなさを指摘すると母親のこの傘しか家に無かったのだと説明した。それで、家の方向が一緒だからと途中まで傘に入れてくれることになった。白地に紫色の小花が散らされた華奢な傘。あなたの腕がそれをひらく。ただでさえ体格の大きなあなたと私ではどれだけ体を寄せてもその傘には当然収まりきらない。結局家まで送ってくれたあなたをずぶ濡れで帰すのは悪いと思い、家に上げた。あなたの長いまつ毛はパーマをあてなくても自然と上を向いていて、その夜、私のパーマをかけたまつ毛にぶつかった。あなたの瞳は雨上がりの花のようにいつも湿気ていて、吸い込まれそうな黒さがあった。雨が乱暴に窓にぶつかる。細く開いたところから入ってきた雫が肩に散らばる。あなたは何を考えているのか分からない。でもよく笑った。あなたは顔じゅうくしゃくしゃにして、大きな声を上げて笑う人だった。他人の話を興味深く聞く人だった。私だからという訳じゃないのかもしれない。しかしその態度は私との生活を心から楽しんでいるように見えたし、私はそうしたあなたの仕草から私への恋心を量るしかなかった。日に日にあなたの持ち物が増えていく。歯ブラシ、マグカップ、下着、髭剃り、パジャマ、眼鏡、充電器、花傘。あなたは食事中にテレビをつける。うるさくないかと意見すると、テレビをつけない方が珍しいよと言う。ほら、中華屋さんだってテレビつけっぱなしにしてるじゃん。強い風が吹きつけて雨が窓を叩く。まるで大勢の観客が拍手をしているよう。本当に、台風がちゃんと来てくれて良かったと私は思っている。
 あなたが何を考えているのか分からなかったのは、あなたの視線の先に私がいなかったからで、そのことに私は気づかないようにしていた。気づかないようにしていたということは気づいていたということで、だからなのか、私はあなたの視線の先に辿り着こうと、気がつけば走っていた。焦っていた。息が切れてしまった。窓の外は日が差している。雲が、早送りされるみたいに通り過ぎてゆく。蒸し暑い。輪郭をなぞった汗が滴ってお風呂に溶ける。
 私の家は窓がたくさんあって、カーテンもガーゼみたいに薄いから、夜電気を消しても明るかった。遮光カーテンを買おうよとあなたは言ったけど、私は朝日を浴びて起きたいと断った。ほの明るい暗闇の中、27度に設定された風が私の背中を滑る。あなたは26度に設定したがるが、私は28度に設定したい。まるで別の生き物のようにあなたの体は暖かくて、毛布をかぶるようにしてあなたの体に抱きついた。眼鏡を外したあなたの、濡れた眼差しが、汗の匂いが、私は忘れられない。口をゆすいで、歯ブラシを元に戻す。膝を抱えるような体勢で浴槽にしゃがみ込めば、あなたに後ろから抱きしめられた記憶がやってくる。私の左肩越しに顔を覗かせて、その大きな掌で私の顔を引き寄せる。温度の違う舌先の記憶。その甘ったるい記憶に、私はまだ潜っていたい。
 先週の土曜日に、あなたからの着信があって、出ればどうせまたいつものように今日行っていい?と言う声が聞こえてくるはずで、その時の私の顔はニヤけていたと思う。もう4日も来てなかったから。だけど、聞こえてきたのは知らない女の人の声で、怒った声で、色んな罵声を私に浴びせた。知らない女の人はあなたの彼女だと言った。罵声の内容は覚えていない、というか、思い出したくも無いし。だけど、その罵声を浴びながら、こんな女が彼女だなんて、あなたは可哀想だと思った。私が彼女だったら、あなたの浮気相手に、あなたの前であんな風に下品に怒鳴ったりなどしない。私の家に置きっぱなしにされたあなたの花傘は、あなたの彼女の物だった。あの夜、お母さんの持ってきちゃったと言って笑うあなたは偽物で、お母さん困るじゃないですかと言って笑い返した私は一体なんだったのだろう。それから始まった私たちの生活は、全部、偽物だったのだろうか。私には分からない。私は、それらについて深く考えないよう努める。
 私は泣いている。膝をぎゅっと抱えて、心臓を抱きしめてやるみたいにして。本当に泣いている時は、心が泣いているなと思う。私は私に嘘をついたあなたにもっと怒るべきで、数少ない友達に電話をして、夜通し愚痴を聞いてもらうべきなのかもしれない。でも今私は悲しい。まだ私は悲しい。もう1週間も経つというのに。心臓のあたりだけ、重力が強くなったように重たい。頭がぼうっとする。涙なのか鼻水なのか分からない体液をお風呂のお湯で一緒くたにする。いつの間にか窓の外には台風が戻っていた。私は安心する。強い風が鳴って、雨が家中の窓を叩く。曇りガラスに、無数の雨の跡が滲む。
 「小雨のうちだったら心拭くのもまだ簡単なのにできない」雨が似合うバンドは雨を歌う。失恋を歌う。未練を歌う。今日が台風で、本当に良かった。



主題・花傘/indigo la End

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