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『街について』の話②

神保町裏路地日記(51)
2024/12/25㈬

 昨日から考えている「私にとっての街について」の話。昨日は郷土意識についての定義と、自分にとっての『故郷/郷土』がどこに当てはまるかを考えました。郷土意識とは、人格形成が成された場所に対する意識のこと。人格形成は3〜10歳の間にだいたい形成されるという前提で言えば、僕の郷土意識は千葉にある。と言うところまでで、今日はその続き。

 確かに千葉は好きです。好きなのですが、じゃあ東京に上京してからはどうかと言われたら、別に故郷意識が無いわけでもないような気がします。学生時代に住んだ八王子も、新社会人時代に住んだ高田馬場も、開業のための修行期間に住んだ田無や花小金井も、結婚してから住んだ荻窪や、今まさに住んでいる神保町も。どれも忘れられない思い出はあって、人格形成が成される場所と言うなら当てはめても良いんじゃないかと思うわけです。

 こう考えるとごちゃごちゃっとしてきますが、僕の中で『個人の人格』と『社会性』がごっちゃになっているような気がしていて。ここを分けて考えるともう少し理解が深められそうです。

 人格形成は遺伝的要因と環境的要因によって成るそうです。環境的な要因とは幼少期の経験や親の育て方、家族構成、学校生活、友人関係など。特に3歳から10歳くらいまでの時期は親との関係性が深く影響し、家庭内の環境や親の関わり方に拠るところが大きいみたい。
 一方で社会性とは、責任感や 協調性など、周りのの人々と関わる場合の態度や行動の仕方を指し、これは人間の根本的な習性で社会化(その社会の文化、価値や規範)を身につけることを言います。人格形成は、社会性を獲得するために必要な人間の個性と言うこと。

 それで問題なのは、それらを獲得するための要因が内的なものか、外的なものかということです。人格形成と社会性を身に付ける上で、両者は違う性質があると言うことが言いたいのです。人格形成の段階では、子供は親や友人、先生など外部の影響が多く、自分で判断し、選択して意思決定を出来るわけではありません。ある意味で人格形成は外部次第で、与えられるギフトの様なものだとも言えます。

 社会性はそうでは無く、人格形成の段階を終えたという前提で社会参加を求められますから、人生の意思決定のほとんどが自己責任になります。『社会の一員としての自分』であり『自分という存在』の確立のため、外的な刺激や要因を踏まえて自己決定する必要があります。「誰々さんが言ったから」という理由が通用しなくなる。

 ここまででだいぶ頭が整理できてきました。これを踏まえれば、僕にとっての『街』がどんなものなのか説明できそう。

 僕にとっての街は大きく二つに分けられて、『少年時代を過ごした千葉』と『自立するために上京した東京』の二パターン。千葉か、千葉以外かでも良いや。千葉は人格形成期間。千葉以外が社会性獲得期間。僕にとっての街(千葉)は、僕が僕である核を育んでくれた場所。僕にとっての街(東京)は、僕が僕という存在を確立していくための場所。そのための刺激や選択をくれる場所。これが今日言語化出来る回答じゃないかなと思います。その選択が衝撃的であればあるほど街の記憶は鮮明に刻まれて、『郷土意識』の様な感覚が生まれるのですが、定義に沿って言うなら社会性獲得期間に生まれた『郷土意識の様な感覚』は人格形成期間のそれとは違うもので、郷土意識というよりはむしろ帰属意識に近いものなのかなと思います。

 もう少し深掘りできそうなんだけど、そろそろ魚を捌かないといけないから続きはまた今度にしよう。でも、頭を整理してちょっとスッキリ出来たかも知れない。

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