『“再現性”と“均一化”のジレンマ』の話
神保町裏路地日記(67)
2025/01/17㈮
昨日書いていた話題が中途半端になってしまいました。昨日は『再現性』についての定義や、どんな事に再現性が求められていて、僕の趣味の登山は再現性が高いのかどうなのかとか、そんな話を書きました。結局のところ、人の生活で大切なのはその『再現性と再現不可能性のバランス』なんだろうと言うところまで考えました。
今日は『“再現性”とそれがもたらす“”均一化”』についての話です。昨日も書いた通り、企業や組織における活動や、科学の研究において再現性は必要なものです。ところが、僕はあるお店さんで「うちは再現性の高い造りをしているメーカーのお酒だけを置こうと思います。」と言う話を聞いて何だか違和感を感じてしまった。
振り返って考えると、この違和感の正体は“再現性”の部分というよりむしろそのお店に置かれた“均一化されてしまったラインナップ”だったんじゃない?と思ってしまう。全国から集められた名だたる商品たちは、単体で見れば高品質でこそあれ系統に似たようなところがあった。『全国の地酒』に各地の特色をもっと感じたい一消費者にとっては、この、高い技術で再現された均一感のある商品群は『全国の地酒ってなんだろう?』と言う疑問を抱かせてしまったというわけです。『全国から集めたこだわりの酒』って、突き詰めると似たようなものの集まりになるんだろうか、と。
厄介なのは“均一化されたもの”に対する違和感です。テクノロジーが発達したことで均一化された商品が広く普及したのは偉大なことですが、“均一化されたコンテンツ”まで同じ様に広まってしまっていることに疑問を感じる。それは例えば『猫の動画を上げればバズります』みたいな人気取りの必勝法のような、例えば『〇〇について言及すれば注目されます』みたいな行動が一般化していること。世間で『流行』のように言われていることから金の匂いがしていることに嫌悪感さえ感じるわけです。
猫の動画なんてちょっと見られれば「あーかわいいな」で癒されましたで終わるのに、困ったことに同じ様に猫の動画でインプレッションを稼ごうとする人は世の中にごまんといて、更にAIが「お前猫好きなんだろ?」とパーソナライズしちゃうもんだからもう猫猫猫と止まらない。猫と癒やしの強要に脳がバグってきそうです。
結局のところ、これも商品(コンテンツ)によるのです。均一化された物に助けられる事もあれば、頭を悩まされる事もあって、その取捨選択を自分に迫られるような状況が疲れると思うわけです。
ラインナップだって、別に『再現性の高い活動=より良い企業/再現性を求めない活動は企業として良いと言えないから置かない』と言うことばかりを言う必要もなかったのです。“再現性が低いこと”は“独自性や一回性が高い”とも言い換えられるから、それぞれ良いところがあるよね。となった方が選択の幅が広がったのになと言うモヤモヤをプロフェッショナルから感じたのが残念だったのだと思います。
あーなるほど。こうやって考えていくと、僕は結局“再現性”と言う概念よりもむしろ“均一化”と言う概念に抵抗感があるんだと分かりました。巷の量産化された顔が同じようなグループとか昔から苦手だったもんね。
再現性によって均一化されたものの便利さと、一回性の奇跡的な出会いの面白味と、これがごっちゃごちゃになっていると混乱する。何だか、物事を楽しむにしても頭を使うなぁと思ってしまいます。かと言って、テクノロジー任せにしていると思考を放棄させられているようで何だかなぁ。だしさ。