古典は、時間を超えて、客観的に自分を知るためのツール、なんだな。
何を隠そう、ワタシは勉強が好きだ。
最近、自分より2周くらい長く生きている方々と一緒に勉強に励んだ。その記録だ。
参加したのは、孔子の『論語』を読んでみようといういわゆるカルチャー講座のようなものだった。
日本中国欧州問わず古典には、興味があった。『論語』の存在は知っていたが、自ら調べるほどのモチベーションはない程度。そういうときは、直接人に教えてもらえるのがちょうどいい。脱線した時の情報が面白くて興味が持てたりするし、質問もその場でできる。書籍だけから入ると、文字が攻めてきて、面白さに気づかず、せっかく生まれた興味が消えてしまうこともあるから。教えてくれる人の熱量も含まれるからその表情を見れるのも一興で、書籍を読むよりもわかりやすかったりするのだ。
簡単に説明すると、中国の思想家・哲学家である孔子は、儒教を広めた人物。儒教は、孔子が書した「四書五経」を経典とした孔子の思想に基づく教えだ。なので、宗教ではない。でも宗教的な側面がないわけではない。「子、怪力乱神を語らず」という文章が、『論語』にある。儒教の教えを簡単に一文で表すとこれだそうだ。意味は、孔子は、奇怪なことや暴力事件、不倫浮気、神秘的な現象を話さなかった、ということ。人間の理性を尊重する儒教の考え方が表されている。
『論語』の文章は、今の時代にでもいえることばかり。社会では、状況をろ過すると抽出される”人間の本質”や哲学は変わらないんだなと考えさせられた。どの時代も、人間は失敗をしながらそれでもよりよく生きようと奮闘しているのだ。むん。
もちろん同じ現代を生きる現代人の“生きる哲学書”なるものもたくさん本としては出ているし、言っていることは結局同じなのかもしれないが、やはり古典だとなんだか重みが違う。今とは違う時代背景があるから。歴史を意識しながら読むと、さらに感慨深いものがある。時代を経て、言葉に重みが乗っかってくる。
自分をちょっと今の時間軸からずらしてみて、遠目から見てみると面白くなった。今という時間軸から自分をひっぺがしてくれて、客観的に自分を見ることができるのが古典なのかもしれないな。
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