ジャガイモ洗い記念日
7月31日、関西ではようやく梅雨が明けた。
7月の終わりを待っていたかのような、夏の始まりを待ちわびていたかのような、気持ちの良いタイミングだった。
僕が京都に移住してから、あっという間に4ヶ月が経つ。
この土地に住むのは大学卒業以来だったので、ちょっと臭い表現をするならば「青春の続き」が始まるみたいだと、引っ越す前は期待に胸を膨らませていた。
ただ、全国的かつ世界的にそうであるように、ステイホームを余儀なくされる日々が続いた。
友人たちと連絡は取り合うものの、なかなか再会することもできない。
前職よりも仕事の時間が短くなったことも重なって、赤ちゃんのときを除けば一番かと思うくらいに、家にいる時間は長くなった。
この生活は予想していた「青春の続き」ではなかったけれど、期待以上のこともあった。
そのひとつは、自炊を再開できたこと。
下手くそなりに食材を切って、味付けし、レシピと全く違う様になってしまった見た目にガッカリする。それでも一口食べれば、「お、意外と美味いじゃん」と嬉しくなって、明日はまた何をつくろうかと考えていく。
僕がやっているデザインや写真の仕事は、そのすべてを計算して取り組んでいくもの。しかし自炊を通して、こうして生活の中には「自分でコントロールしきれない事象や感情」があることに、改めて気づくことができた。
こんな暮らしをしばらく続けていくと、段々と食材についても興味が湧いてきた。
普段スーパーで並んでいる野菜をなんとなく選んでいるけれど、それらがどのようにできているのか、どんな風に育っているのか、全く知らないことに気がついた。
僕は畑と山とに囲まれた村で生まれ、農業は身近すぎるものだったのに、なにも知ろうとしていなかったんだな、と思った。
畑をやっている友人がいるので連絡したところ、昨日8月1日に、作業を手伝わせてもらえることになった。
単純に会えるのは楽しみだし、土に触れるのも久しぶりだったので、感染症対策をしっかりしつつ、遠足のようにうきうきした気分で、仕事の日よりも早起きしてバスに乗り込んだ。
1週間前から天気予報を数時間ごとにチェックするほど晴れてほしいと願っていた結果、当日は気持ちよすぎるくらいに快晴。
むしろ、もう少し曇っていたほうが涼しくてありがたかったというのは、贅沢すぎる願望かもしれない。
トマトの収穫では、ヘタがすぐ取れてしまうことを知った。
人参の種まきでは、最後にもみ殻を振りかけて、足で踏み固めることを学んだ。
自分が巻いた種が発芽し、しっかり実をつけてくれるかは、当分先にならないと分からない。こうして「待つ」という楽しさと不安を味わうのも良いなあと、じんわりと感じた。
昼休憩の前に、ジャガイモを洗った。
でこぼこした大きいものも、コロコロした小さいものも、土を丁寧に落とすうちに、なんだかひとつひとつを愛おしく思えてきた。
スーパーには、生産者の方の名前とともに、野菜が並べられていることが多い。それらは僕にとって、これまで情報のひとつでしかなかった。
けれどその裏には、きっとこうした手間暇があるのだろう。
思い通りにならない天候にもどかしさを感じつつ、育ってくれたことへの感謝があるのだろう。
たった1日だけの農業体験だったが、これまで食材としてしか考えていなかった野菜から、様々な暮らしを考えられるようになった。
改めて、素敵な機会をつくってくれた友人とそのご家族には、感謝の気持ちしかない。
俵万智さんが「サラダ記念日」と詠んでいたように、僕は8月1日を「ジャガイモ洗い記念日」と名付けた。
世の中では、まだまだ予測できない事態が続いている。
そこに強い怒りや苛立ちを感じることもある。
けれどコントロールしきれない事象や感情があることを受け入れつつ、自分にできる暮らしを、しっかり紡いでいこう。
帰りの車に揺られ、汗臭くないかなあと心配しながら、そんなことを考えていた。
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ちなみに、友人がやっている畑はこちら。
オンラインショップもあるので、ぜひ。
めっちゃ美味しいよ。
いつか、コーヒーでもご一緒しましょう。