20.0009 妊娠もイレギュラーなら、出産もイレギュラー😆
1999年3月中旬になると、いよいよ、もういい加減、お腹の大きさが自分でも限界なんじゃないかしら?と思うくらいになっていた。
えっちら、おっちら、「よいしょ、よいしょ」と声をかけながら、出産に向けて散歩をしたり、入院の準備をしたりしていた。
もちろん、普通に出産するつもりだったし、先生もそのように言ってくださっていた。
いろーんな出来事はあったけれど、ともかく赤ちゃんが無事に生まれることで何かが再出発☆できるような気がしていた。
3月29日のことだった。
祖母に、何かオリモノのようなものが出てきているのだけど、、、と話したら「もうすぐ陣痛が始まるね」と言われた。
そのとおりで、翌30日、なんかお腹に鈍痛が走り始める。。
「これが陣痛の始まりかーー」と思い、母とともに病院に行った、かどうか・・・はもう覚えていない。
私の記憶は、病院の個室にいるところからだ。
激痛を通り越した、かつて経験したことのない痛さ(=陣痛)との闘いが始まった。赤ちゃんの様子と、私の骨盤の開き具合を先生が何度も確認してくれたような覚えがある。 私の背は低くて、骨盤が開きにくいと言っていたようだ。 赤ちゃんが想定以上に大きかった。
今はあまり使用しないと聞いたことがあるが、私の出産のときは、陣痛促進剤を使っていた。どのくらいの量とかは全然覚えていないが、印象としては『ガンガン』使われたような感じ。 <もうやめてくれーー>と声に出すこともできないくらい。後日、母が言うには「あの時の美樹さんは、白目をむいて、ゾンビみたいだった。怖かった」って。
母上さま、痛いうえに怖かったのは私のほうでしょ~😭😭😭
先生が、検査の結果を言われた。「赤ちゃんが大きいのと、骨盤の開きがあわないので、急遽帝王切開手術にします。そうしないと両方ダメになるから。」と母に話していた。この「ダメ」というフレーズは、たぶん先生もあせって、つい口に出てしまったのだろうが、陣痛促進剤で意識がもうろうとしていた私は「あ~、私と赤ちゃんはこのままだと死んじゃうんだ・・。」とわかった。
ここで死んでなるものか!
ということすら私に叫ぶ余裕はなく、周りは手術の用意を始めていた。
全く予定していなかった手術なので、なんと、手術室が空いていなかった。 手術室が空くまで、頑張ってくださいと言われる。
何をどう頑張ったらいいのーーー涙。
たぶん、母に(付き添い)がんばってください、と言ったんでしょうね。。私はもう限界だった。朝、病院にはいり、もう夕方になっていた。
手術室へ行って横になった。
そして、これも驚いて覚えているのは、あの激痛で意識がぶっ飛びそうな状況の中、手術同意書は、本人が直筆で書かないといけませんと言われる。「そんな無茶な」と言うこともできず、震える手で何とかペンを握り、紙に「大口美樹」らしき文字を書いた。絶対読めなかったろうなあ。
人生の初手術が、出産になるとは!
手術台に登った時、看護師が「あら!靴を履いたままだわ!」と言われたことも覚えている。なぜなら「そんなん、脱げるわけないでしょーー。こんな状況で!」と思ったから。今なら突っ込み返して笑えるけどね。
靴を履いたまま、服も朝病院に行ったときのままだったかどうかは覚えてないが、とにかく手術室にかつぎこまれ横になった。
😊今回もお読みいただき、ありがとうございました!🍀
▶私はこのnoteを、シングルマザーの人たちに少しでも共感を持ってもらったり、私の経験を読むことで「よーし、明日からもがんばろう!」と、
明るく未来を語れる自分になってもらえたら・・・との願いを込めて書いています。
ひとり親になることを選んだのは、多くはシングルマザーの決断によると思います。死別ではなく、自らの意思による離別により、シングルで子供とともに生きることを選んだのは自分自身だということを胸にとどめることが大切だとも思っています。
誰のせいでもなく、自分が選択した結果が今なんだ、と強く感じています。
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