ワーホリに行ったら夢も失った話
※初めに、この記事は私の無計画な海外体験により起こった事態を反面教師として記録したものです。決してワーキングホリデー制度やワーホリに行く事を否定するものでは無い事を念頭において読んでくださると幸いです。
私は2024年8月にワーキングホリデーを利用しドイツに渡航した、しかし2か月ほどで帰国をしたあげく夢まで失った。私の身に何が起こったのか説明しよう。
夢を持ったきっかけ
私が夢を持ったのは中学生の頃、たまたま観たディズニー映画に感銘を受けアメリカのアニメーション業界に入りたいと思ったのがきっかけである。それまで私が知っていたディズニー映画とは手書きのアニメーションだったが、初めて劇場の大スクリーンで観る3DCGは圧巻だった。これの為に人生を捧げられるとさえ思った。アメリカのアニメーション業界で働く為にはアメリカの美大に留学するのが近道だと調べて分かったが、その後特別美術教育を受けるわけでもなく周りのムードに流されながら高校、大学へと進学していった。
夢への挑戦
大学に入学し1年目は普通に過ごすものの、翌年新型コロナウィルスが流行した影響により外出は規制され春休みも夏まで延長。膨大な時間が残された。そこで私は自分の将来について考えるようになり、諦めていた絵を本格的に学ぼうと決めた。偶然ネットでアメリカのアニメーション業界で働いている人たちが教えているオンライン講座を見つけ、受講した。そこで素晴らしい講師やクラスメイト達と出会い楽しく絵を学んでいた。周りには留学をして成功している人が沢山いる。夢に思えた海外留学も現実のものと感じるようになり、就職活動もせず大学卒業後も授業を取りつつ海外留学の準備をした。2024年上旬、めでたく希望の大学から入学許可をいただく。しかし物価高も相まっていただいた奨学金では留学費用を賄うことができず途方に暮れていた。そんなある日、海外で働くことができるワーキングホリデー制度というものを耳にする。
ワーホリに行ったきっかけ
ワーキングホリデーとは、日本の若者が海外で一定期間働くことができるという制度である。日本よりも時給が高い海外で働くことができれば留学費用を賄えるのではないかと思い、合格した大学には期日を延ばして貰いワーキングホリデー制度を利用する事にした。そこで私は数ある国の中からドイツを選んだ。理由はいくつかある。まず初めにアメリカにはそもそもワーキングホリデーという制度が無い。そして私はアニメーション業界に入りたいという夢とは別に、ヨーロッパに住んでいろんな国を旅行したいという憧れが昔からあったのだ。ヨーロッパ諸国の中でもドイツを選んだのは、昔から何かとドイツと縁があったからだ。大学の授業でドイツ語を取っていたし、ドイツの暮らしの素晴らしさについて語る書籍もいくつか読んでいた。実はワーキングホリデーに行く1年前に一人旅をしていた際にドイツを訪れており、その雰囲気が妙に気に入っていた。また、運良く知り合いにもドイツにワーキングホリデーに行っていた方もいて色々話を教えていただくこともできた。更にヨーロッパを旅しながら描いた絵を提出したらより多くの奨学金が貰えるのではないかとさえ考えた。今思えば浅はかな思い付きである。
こうして私は早急に準備をし、2024年8月にドイツに旅立った。心の中では稼ぎたいというよりも沢山旅行したいという気持ちの方が、正直大きかった。
ワーキングホリデー中の出来事
渡独するにあたり、まずベルリンにある日本人のアパートを2週間程又借りさせていただいた。本来ワーキングホリデーでは長期間滞在する為、最初はホテルや短期のアパートなどに住みつつ借りれる部屋を見つけて住民登録をするのが前提だ。しかし私は部屋探しをしなかった。というのもドイツに来たばかりで色々観光したかったし、一つの都市に決めるよりは国中見てからにしようと思ったからだ。今思えば部屋探しから逃げていたのかもしれない。というのも移民の多いドイツでは部屋探しの競争率が高く家賃も年々上昇している。しかもやり取りも全てドイツ語で行わなければならないし、仮に部屋を借りれても数ヶ月間は移動する事ができない。色々見て回りたかった自分には合わないと感じた。
昨年ドイツを訪れた時のベルリンはとても綺麗に見えたが実際に住んでみると、移民や落書き、ゴミ、ホームレスなど物騒な感じがした。アパートでの生活も居心地が良いものとは言えなかった。その時又借りをしていたわけだが、ドイツの家は防犯対策が厳しくたまたま同じアパートの住民や大家に鉢合わせ通報されたりでもしたらたまったもんじゃない。毎日出入りする際はできるだけ音を立てず早急に済ませた。そして何を隠そう私はずっと実家に住んでおり家を出た事など無かったのだ。異国の地に1人いて早速帰りたくなった。しかし、この国でまだやる事がある、慣れたら寂しく無くなる、と自分に言い聞かせてた。家族や友人と食事をしたあの時間はもう戻らないのだと実感し冷たく硬いパンをかじり日々空腹を誤魔化していた。
ベルリン滞在後は、西ベルリンにも行ってみたいと思いデュッセルドルフにある寮つきの語学学校に2週間お試しで通うことにした。語学学校はそれなりに楽しくやっていた。寮には他の住民もいるので気を使うこともあったが、寂しくはなかった。デュッセルドルフには日本人街があり懐かしい日本食を食べる事もできたが、高かった。日本と同じものを食べるだけで余計に金を払わなければならないのは馬鹿らしくもさえ思えた。ドイツに来ておよ1か月程が経った。
次第に毎日寮と学校の往復の繰り返しに飽きてしまった。そこで家を探せば良かったものの、語学学校を辞め隣国のオランダに旅行することにしたのである。しかしここで事件が起きる。語学学校の寮から退出する際にリュックの背中ポケットに入っていた財布が盗まれてしまった。幸いにも所持金は分散していたのだが、この金は渡航前母からいただいたものだったので悔しさと申し訳無い気持ちでいっぱいになった。そんなモヤモヤした気持ちを抱えつつオランダに向かった。
オランダ旅行を終えドイツに戻ってきた私は、次にブレーメン、ハンブルクと北ドイツを訪れた。ドイツの主要都市を全て巡ってみたかったのだろう。当時はその後部屋を探すなりデンマークの方に行くなりしようと気楽な考えを持っていた。だが今回の旅は一筋縄では行かなかった。今までは拠点を決めていたことからスーツケースは預り所に預けバックパックのみで旅行していた。しかしこれから行く都市は拠点が決まっていない為重いスーツケースを引っ張りながらの移動しなければいけなかったのである。スーツケースも私も次第にボロボロになって行った。ブレーメンに到着し観光しようと思った矢先、私は旅をすることに飽きてしまった。というのも今までは新しい場所に行き知らない物を食べるのが楽しくて仕方がなかったのだが、流石に1ヶ月もいると慣れてしまった。しかも食べ物も大方食べ尽くしてしまったので、特にこれといった新しい発見も無い。しかし腹は満たさなくてはならないので、次第に高いくせしてあまり美味しくもないものに金を払うのがバカらしく感じるようになった。食事を抜く事も珍しくなかった。
次にハンブルクに向かった。アクセスの良さから中央駅前のドミトリーを予約したが、ガラが悪かった。その日偶然ハンブルク中央駅に感染症にかかった乗客が搬送されたというニュースが流れた。不謹慎なのだが、この感染症が流行れば日本に帰る口実ができるのに、と思った。それほど疲弊していたのだ。次の日観光しに街へ出たが、やはり楽しめずすぐにドミトリーに戻って来た。ドイツ滞在中、月に1度通話をしようと姉と約束していたが、この時無性に通話したくなった。しかしタイミングが合わず仕方なく母に連絡してみた。久しぶりの母との会話。そもそも会話する事が少なかったので最初の方は何を話していいのかわからなかったが、拙い話を親身に聞いてくれた。そして心配させると思い躊躇していたが、貰ったお金を盗まれて申し訳なく思っている事を話した。母は金の事よりも私の身の心配をしてくれた。私は普段感情をあまり表に出さないタイプだったが思わず涙が流れてきた。この時私の中で何かが切れた。帰ろう、そう思った。これ以上辛い思いをしていたくもない場所にいる必要はない。もう一度語学学校に戻ろうかとも考えた、しかしバイトをしても費用を賄えないので辞めた。通話後すぐに日本行きのJALの飛行機を予約した。20万程した。他にも安い航空券はいくらでもあったが、その時は一刻も早く安全に帰りたかったのだろう。こうして私の2か月余りのワーキングホリデーはあっけなく終わった。
ワーホリを断念した理由をまとめると以下の通りである
精神的、肉体的に疲れた
外国語でのコミュニケーションに疲れた
常に気を張らなければならず安心できる時間が無い
金がどんどん減っていく不安
仕事をしたとしても生活費を賄えない
家探し、住民登録のハードル
ワーホリから帰国して
帰国できて私は心底ホッとした。日本は平和で静かだった。安心して道を歩けるしサービスや食べ物も素晴らしい。こんな良い国は他にないと思った。家に帰ったその夜、肩の重荷を下ろし泥のように眠った。
ところが次の日からなかなか寝付けなくなった。これからどうしようという不安や、家族への申し訳なさが頭をよぎって来るのだ。
元々の夢であった海外留学だったが、帰国した当時は第一志望は諦め入学も難しくない学校に大学院で2年行こうと思った。しかし折角安全な日本に帰ってきたのにまた海外に行く事への恐怖を感じた。考えが変わると思い東京で行われたアニメーション業界のイベントに参加した。そこで講座を受講した事もある憧れていたアーティストに自身の作品を見せ、今後の進路を相談した。すると、アメリカの物価は高いからそれよりもヨーロッパの学校に4年程行った方が良いとアドバイスをいただいた。それを聞いた時はなるほどなと納得した。しかし後から何故か急に強い拒否反応を感じた。2ヶ月でも辛かった海外に4年もいられるわけない。そもそも今までアメリカに行こうと思っていたのだから急にヨーロッパの学校と言われてもどんなものがあるのか分からない。仮に4年行き卒業したとしても業界に入れるかわからない。この時私の夢は途端に途方もないものに感じた。それから少ししてディズニーの新作映画が公開された。好きだったディズニー映画を観たらあの頃の様に感動しまた夢を目指せるかもしれない、そう思い劇場に向かった。久しぶりに観たそれはつまらなかった。元々作品のクオリティが下がっているなと薄々感じていたのだが、何より純粋な気持ちで観られなくなった。今までは夢の為なら全てを捧げられると思ったが、これの為に人生を捧げることはできない。こうして私は、夢を失った。というよりも夢を捨てたという表現の方が適切なのかもしれない。そもそも海外生活とはストレスの溜まるものだと私は思う。知り合いもいなければ言葉の文化も違う、そんなものに耐えられるのはよっぽど強い目標や信念が無いと無理だ。
それからは酷かった。今まで信じていたものが崩れ落ち、まさに哲学者ニーチェの言うニヒリズムの状態に陥った。留学という目的が無くなった今、私は就職活動をしなかったツケを痛感した。しかし今更やっても大した職につけないだろうし、かと言って海外にも行きたくない。しかし現状家族には迷惑をかけてしまっている。こういった答えの無い思考を毎日グルグルとしていくうちに変化が起きた。将来について考えていない時も気分が落ち込む様になったのだ。そして全てが嫌になった。
次に働いていない自分への嫌悪感を感じる様になった。人と会うのが億劫になり次第に外へ出なくなった。
見ず知らずの他人が怖く感じるようになった。
人の多い場所にいるのが疲れる様になった。
ささいな音が煩わしく感じた。
正月のお祝いムードが楽しめなくなった。
テレビやSNSが鬱陶しく感じた。
世の中が憎く感じた。
現在私は精神科に通い薬を処方していただいている。幸い鬱や自ら命を断つとまではいかないが、何故自分が生きているのだろうと時々感じる。
終わりに
これからワーキングホリデーに行こうと思っている人は一度海外生活を、できれば制度を使いたい国で体験する事をおすすめしたい。
これまでワーキングホリデーについて散々ネガティブな意見ばかり述べたが、結果はどうであれ挑戦する事でしか得られない経験も沢山あると思う。
こんな記事を見た事で海外に行くのを躊躇させてしまったら申し訳ない。
勿論こんな散々なワーホリ体験の中でも楽しかった瞬間も沢山あったのでまた機会があれば記事にしようと思う。
日本に帰ってきて不幸ばかりに思えるが実際今の状況には感謝してる。失うことで初めて自分が持っているものの価値に気が付いた。私はこれからどうなるか分からない。もしかしたらまたドイツに戻るかもしれないし日本にずっと留まるかもしれない。しかし今はただできる事を日々淡々とこなして生きていく。