About.yoshiaki OGISHIMA/荻嶋義章
こんにちは。
僕についての紹介をします。
職業:会社員
⇒「(株)アウスタ」という人材派遣会社
複業:カメラマン
⇒主に人を撮っています。
https://www.instagram.com/yoshiakiogishima/
◆小学生。
朝のニュースの星占いと、隣の席の女子の顔色に一喜一憂する1年生だったと思います。
ファミコンがめちゃくちゃ好きで、
どれだけファミコンをやることを許してもらえるかどうかで母親に駄々をこねた気がします。
「放課後の校庭はまるで宝島」
という歌詞が、ドッジ弾平の歌にあるのですが、僕にとっては、放課後の校庭で友達と遊ぶ時間よりも、家に帰ってファミコンをやる方が人生の宝探しでした。
あーだこーだ駄々をこねて、いかに親にファミコンやスーパーファミコンのソフトを買ってもらえるかどうかが当時の僕のミッション(使命)でした。
6つ上の兄を持つ弟ということも手伝ってか、年上に愛される資質はこの時に磨かれたのだと思います。
あと、小4の時、とある先生に対する恨みを作文にぶつけたら、それまでスローライフだった鉛筆が疾風迅雷になりました。
義章の章は文章の章
文章の才が開花した時でした。
怒り、からの、開花。
悟空が初めてスーパーサイヤ人になった時みたいですね。
◆中学生。挫折は特になし。
中学にあがって、陸上部に入りました。
問題は、特にありません。
相変わらずファミコン&スーパーファミコンが好きなので、小学生から引き続き、彼女はできません。
何となく「できたらいいな」レベルでした。
中1の時に初めの席で隣に並んだとある女子が、とても大人ぶっていて、あからさまに中学デビューでもしたかの様な感じで、全てが気に入らなくて、嫌いだったのですが、その8年後の21歳の時に付き合うことになりました。
高校受験は
好きな女子と同じ高校を目指す
わけでもなく
Gガンダムの後期OP曲を聴いて受験勉強しました。
◆高校時代。相変わらず挫折は特になし。
1年生は、何となく過ぎました。
思い出と言えば、部活の先輩にエロビデオ(当時はVHS )の存在を教えてもらったことです。
相変わらず、何となく陸上部でした。
相変わらず、何となく1500m続けました。
2年生
何と言っても人生初の「告白」しました。
放課後の学校の人気のない廊下で。
で、フラれました。
からの
1週間後、
荻嶋家の家電に合格通知ありました。
からの
1週間付き合って
友達(気まずい)に戻りました。
修学旅行は北海道に行きました。
札幌でなぜかカラオケに行きました。
埼玉でも行けるカラオケに。
それがとても面白かったです。
それ以来学校帰りのヒトカラが日課になりました。
ここぞとばかりに学割を使いまくりました。
◆挫折は特になし。女子が多いしモテたくて服飾の専門学校へ。
僕にとって、人生とは
「女性に囲まれるものである」
です。
この、僕の言葉の通りに、僕は女性に囲まれました。
結果、囲まれ過ぎると苦しかったです。
40人くらいのクラスで、女子35人、男子5人。
素敵な副産物としては、クラスの数少ない男達は仲良くなりました。
それこそ、男子が20人いたら話さないであろう属性の男子とも話したりしました。
相変わらず原宿よりも秋葉原が好きだった僕でさえ、です。
環境の影響です。
とはいえ、環境が僕をオシャレにしてくれるわけでもなく、僕は、シンプルという名の、どうしようもないTシャツGパンスタイルでした。
で、2年生になり、
何となく、地元の美容室で金髪になりました。
(この美容室というのが、中1で同じクラスで、21歳で付き合うことになるあの子の行きつけだということを知ったのは、あの子と仲良くなってからのことです。素敵だと思いませんか?)
で、
金髪になった僕を見たクラスの精鋭男子の中のさらに精鋭の2人が、変わる見込みアリと見なしてくれたのか
オギシマ君改造しようや~♪
というノリで
「荻嶋改造計画@高円寺」
が実行されました。
僕は、生まれて初めて、
「オレ、ええやん。」
と、思いました。
自分に厳しいんだか、甘いんだか、って感じですね。
甘いです。
友達2人は、僕を使って、楽しんでいただけかもしれませんが
それでも、僕にとっては、
確かなきっかけ
だったので
感謝しています。
◆続・専門学校時代。別れも挫折も特になく、大好きな人たち、文化との出会い。
専門学校に入って、いろいろありました。
・アルバイト、はじめました。(セブンイレブン)
・髪、染めました。
・ひとりで買えるもん(服)
・朝まで踊るもん(クラブ)
そうです。遊ぶ様になりました。
僕がついに、自分の部屋以外で、遊ぶ様になりました。
というのも
そもそも
放課後ブラついていた原宿で
「←blues dress→(ブルードレス)」
という隠れ家的な服屋と出会いました。
隠れ過ぎていて、僕以外のお客さんがほぼほぼいなくて、心配する反面、僕にとっては居心地が良くて、放課後、部室に寄る様な感覚で、試着しに行っては、あーだこーだ、店員のお兄さんの話を聞いてました。
で、何も買わずに帰ることを、幾度となく繰り返してました。
そういう
「気まずさの先払い」
を、かなり、した頃には、僕はそのお兄さんの語る
「Mods(モッズ)」
という、1960年代イギリス生まれの文化に染まりきってました。
で、成人式のスーツは、そこで買いました。
確か、シャツとネクタイとセットで、90000円くらいしたと思います。
もちろん、親のお金で買いました。
一生に一度
成人式の特権
フル活用しました。
これも
「気まずさの先払い」
です。
「図々しさの訓練」
とも言います。
で
「そのスーツ来て、イベント来てね。」
と、お店のお兄さん。
Modsオギシマは、イベント行きました。
◆服、音楽、スクーター。そして…
いわゆる
ベタな
ステレオタイプな
Modsの
「三種の神器」
的なものが
服・音楽・スクーター
でした。
僕は服から入り
イベントに行き、音楽にまで染まりました。
スクーターは買いませんでした。
具体的にはベスパやランブレッタです。
で
イベントに初めて行ったのは、冬休みでした。
クリスマススペシャル的な回でした。
冬休みなので翌日は寝てもイイ感じです。
で、行くと、
かわいい女の子が踊ってました。
Martha and The Vandellasの
Heat Waveとかで踊ってました。
2002年でしたが
1960年代ってイイなと思いました。
かわいい女の子が踊っていたので。
その日、最後にかかった曲は
Mar Keysの
Last Nightで
その曲で初めて僕は曲に合わせて踊りました。
踊りましたと言っても、
Last Nightで踊るステップというのは
Do The Dogとか言う、単純なステップで、
すぐにJoinできる感じでした。
僕は、それからというもの、
学校が始まってからも、
その、オールナイトのイベント
“ウイスキー”
こと
「Whisky a go go 」
に毎週の様に通うことになるのでした。
水曜日でした。
そこには
・かわいい女の子がいて
・同い年(20歳)の服飾の専門学校生のかわいい女の子がいて
・イケてるダンスを踊る同い年の男がいて
・シュッとしたスーツを着てシュッとした顔をしたとあるセレクトショップの店員さんがゲストDJでいて
・ダンスが明らかに上手い年齢不詳の空手の先生がいて
・ダンスを分かりやすく教えてくれる優しいお姉さんがいて
・フミヤが好きなお姉さんがいて
and more
って感じで
とても面白かったです。
それは、僕が初めて足を踏み入れた
家でもなく
学校・職場でもない
サードインパクト
いや
サードプレイスだったのだと思います。
居場所
でした。
◆“まともって、何だい?”ヒーローになった僕。
“まともって、何だい?”
という感じのニュアンスのセリフを
Modsを題材にした映画
「さらば青春の光」
の主人公・ジミーが、親に言うのです。
僕も思います。
“まとも?何それおいしいの?”
と。
で、
“ウイスキー”
という名のコミュニティ
学生だったので
部活
という表現の方がハマるかもしれません。
部活の方にかける熱量が学校の授業よりもアツくなってしまった感じです。
それはそれとして
当時は二次元、PCのエロゲーにアツくなっていた僕にとっては
三次元、リアルな人との交流にアツくなり始めたということで
何か、健全な方向に動き始めた感じです。
案の定、分かりやすい睡眠不足により、
授業中、針と糸を持ちながら寝てしまうことがあり(頻繁にあり)、クラスの女子の注目を集めたりしました。
で
「ヒーロー」
という素敵なあだ名をいただきました。
オギシマ君は、夜に、みんなの知らないところで戦っているから、昼間はあんななんだよね。という設定で。
学校の、女子の中にもそうやって、僕を面白がってくれる派閥が生まれたりして、いろいろと、楽しくなってきた、という感じです。
で
ダテメガネを買って
寝てしまっても、針が目に刺さらない様に対策しました。
◆あ、カメラ、まだです。
専門学校を何となく卒業してしまった僕は、セブンイレブンで女子高生に囲まれつつ、楽しくアルバイトしてました。
で、稼いだお金は服に。
お酒にも、タバコにも目覚めなかった僕は、とにかく服に。
レコードにも、スクーターにも目覚めなかった僕は、とにかく服でした。
◆で、伏線の“あの子”登場。
オシャレして
さらには
ある程度のステップを覚えた僕は
井の中の蛙として
根拠のない自信を身につけて
調子に乗るまでになりました。
で、荻嶋蛙は女の子に連絡。
手段は
メール
電話
時々、年賀状。
アポをとっては
遠回しに、遠回しな、I love youしてました。
・専門1年の時に同じクラスだった子(Mちゃん)の誕生日におめでとうアポの勢いでI need youしたら終電で帰っちゃったり、
・年上のお姉さん(スタイリスト・服の方)Nさんに、夜の静かなキャットストリートでフラれたり、
・Nさんに心移った頃に時間差でMちゃんからまさかのOKサインをいただいたけれども、「ごめん、今、好きな人がいて。」を言いたいがために断って、二兎を逃したり、
しました。
で、年賀状。
荻嶋蛙
何を思ったのか
中1の
“嫌いなあの子”
に送りました。
ざっくり言うと
「僕、今、オシャレなんだけど、君は今、どう?」
みたいな感じの内容で送りました。
すると、まさかの、
「私も服に興味あって!」
的なアナログレスポンスいただきました。
荻嶋蛙は感感感動しました。
6畳の実家のマイルームでその年賀状を両手で持って、小声で「うおー!」「えー!」とか言ったと思います。
で、何とかして、その“Eちゃん”と会いました。
二人の共通点・原宿で。
僕はとても胸が躍っていましたが
相変わらずEちゃんの顔はあまり好きではなかったので、ほど良いドキドキ感でした。
久しぶりに会ったEちゃんの印象は
「あれ?イイ奴なんじゃね?」
でした。
◆自己紹介というか、僕のコイバナやん。
それはそれでイイのでは
とも、思ったのですが、
正直、長文を超えた、超長文になってしまい、僕が
「鶴の恩返し」
の鶴みたいに磨耗してしまう感じがしたので
Eちゃんとのその後に関しては
知りたい人には教える
スタンスにします。
ぜひ、聞いて下さい。
ベラベラしゃべります。
または、送ります。
◆女性以外のことは、薄い人生だと思います。たぶん。
それから
21歳の僕は
2003年9月頃から
その
「←blues dress→」
という服屋で働かせていただけることになり、
原宿、大阪、京都、名古屋と
店舗を転々とさせていただき
5年働かせていただき
クビになりました。
2008年9月1日未明の出来事でした。
何度も、遅刻とか、無断欠勤とか繰り返していて、5年もいて、後輩もどんどん入ってくるのに、直らなかった、直さなかったからです。
◆で、(株)アウスタに入社。
地元、大宮に帰って来て、2週間ほど実家で寝たり食べたりして、そろそろヤバイなと何となく思った26歳の僕は、大宮駅前のベンチで、分かりやすく途方に暮れてました。
すると、お仕事を紹介されました。
水前寺清子さん
幸せは、歩いてきましたよ。僕には。
大宮駅前には、埼京線に乗ったあと、歩いて行きましたけどね。
◆1ヶ月ぶりの社会復帰、そして。
セブンイレブンとか、服屋とか、
接客、販売をやってきた僕ということで、携帯電話の販売のお仕事を提案していただきました。
地獄に垂らされた蜘蛛の糸を掴む思いで、僕はその提案を、早押しクイズばりにイエスマンさせていただきました。
キッチリちゃっかり1ヶ月
2008年10月1日、社会復帰しました。
◆で、1年後。カメラとの出会い。
ざっくり言うと
「携帯電話、一生売り続けるつもりではないですよね?だったら、何かしましょう。」
みたいな感じのお話を、アウスタの先輩からいただきました。
具体的には
「美人時計みたいなやつ、やったらどうかな?」
でした。
で、
「夢カレンダー」
はじめました。
会社の備品の
Canon EOS Kiss x3
で。
◆「夢カレンダー」をやってる人・荻嶋義章
特にカメラとか、写真が、嫌いでもありませんでしたが、好きでもなかった僕にとって、夢カレンダーを始めた2010年頃、カメラは
「夢のある人と出会うための道具(手段)」
でした。
夢カレンダー=カメラ=夢のある人と出会うための手段
でした。
大宮駅前でのモデハン
というか
声かけは
特に抵抗はありませんでした。
服屋の5年間、お店の前で声かけしていたので。
◆夢カレンダーをやる人→カメラマン
僕が夢カレンダーを初めて2年半くらいした
2012年6月頃
「もう、カメラマンになっていいよ。」
的なお声がアウスタ社内でかかりました。
◆カメラマン・荻嶋
2012年7月から2014年2月までカメラマンをさせていただきました。
2012年12月に彼女ができました。
◆再び携帯電話販売。色々あった。そして全国1位。
2014年2月から再び携帯電話を売りはじめました。
2015年5月頃
国立新美術館で
「ルーヴル美術館展」
をやっていた頃でした。
休日でした。
僕は国立新美術館で担当SVからの電話に出ました。
個人の実績
全国約5000人中
1位らしいです。
ワースト。
そういえば
2014年12月
2年と1週間と1日お付き合いした彼女にフラれました。
◆異動、終了、そして今に至ります。
全国ワースト1位になりながらも、
なぜかクビにならない奇跡が起きまして、
異動で済みました。
そして4ヶ月が経ち、
新たな場所でも成績が悪かった僕は、
終了となりました。
で、2015年10月1日から、今の
「お葬式のお花を飾る花屋さんのサポートのお仕事」
になりました。
◆自分の人生に集中する
毎日の様に、お葬式を見ることで、思ったのは
「人のリアルな感情は、僕の感情を揺さぶる。」
ということでした。
分かりやすく言うと
僕を泣かせようとは思っていない人が
亡くなった自分の家族へ語りかける最後のあいさつ
それがとても泣ける
なぜならそれはとことんリアルだから。
悲しみそのものだから。
◆いいことばかりじゃないけど、わるいことばかりでもない。
ブルーハーツの
TRAIN-TRAINみたいな感じです。
人が亡くなって
悲しいのは、悲しいのですが、
そもそも
悲しいのは、
大切な人が亡くなったからであって、
そもそも
大切な人が存在していなければ、
その悲しみすらも、ないのであって、
と、考えたら、
悲しいだけでもないなと思いました。
分かりやすく言うと
死ぬってことは
生まれたから起こることで
そもそも
生まれなければ
死ぬこともないわけで
だとすると
生きてるうちに出会えたとしたら
それは喜べることだなと思いました。
◆撮れる喜び
生きてるうちに出会えて、さらに写真を撮れたなら、それは素敵なことだなと、思いました。
さらに、その後、その人が亡くなったとしても、その写真は残ります。
僕が死んでも、写真は残ります。
夢カレンダーを始めて6年目
写真を撮ることの凄さ、というか、価値を今さら感じる僕でした。
◆で、何を撮るのか?何を撮るのか?
その時、撮りたいものを撮ります。
会いたい人に会い、撮ります。
そこに、遠慮はなくなりました。
それが
それ自体が僕にとって
生きること
なので。
実家が近いので、親に会うこと、親を撮ることが増えました。
◆で、何をするのか?誰とするのか?
自分がドキドキすることを
ドキドキする選択肢を選ぶ様になりました。
脳内に、選択肢が浮かんでくる感じです。
これは、学生時代にハマったギャルゲーやエロゲーから生きてますね。
「神のみぞ知るセカイ」
という漫画の主人公・桂馬君みたいな感じで、リアルというギャルゲーをやっている感覚です。痛みも、喜びもリアルです。
素敵な女性との時間は、特別ドキドキするので、割と、女性にこだわります。
◆この記事、僕の人生を通じて、届けたいこと。
僕は特に苦労や挫折をせずに生きてきたと思います。
それでもイイと思います。
「挫折、からの、成功」
みたいな生き様って、感動的で、分かりやすいなと、憧れた瞬間もありました。
そういう、無い物ねだりがあるのなら、
挫折ある人からすれば
僕みたいな、挫折なき人はうらやましいはずなので、
僕は、挫折と苦労なきことを誇ります。
◆写真を撮り続ける理由。
最後に、写真を撮り続ける理由ってなんだろう、
って考えました。
楽しいから
です。
その瞬間をシャッター
あなたのハートをキャッチャー
それが僕の仕事です。
yoshiakiOGISHIMA.
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◆からの
元ネタ(とはいえ原型をとどめているのは骨組みぐらいの勢い)はコチラです↓
http://takumiyano.com/2017/07/28/about-takumi-yano/
僕とは面白いくらい対照的な生き方をしている様に感じた矢野さんの自己紹介記事です。
カメラマンという共通点はありますが
面白いくらい違うので、読んで下さい。面白いので。
どちらも読むと、より楽しめます。