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ラザニアとは何か

私がデザインしたラザニアが12月16日から関東と東海の一部のセブンイレブンでテスト販売される。


元々フランス料理人の私がなぜコンビニ冷凍食品のラザニアを設計することになったのかは話が長くなるので割愛しますが。
さて、ラザニアとは一体何だろう。
ミートソースとホワイトソースを平たいパスタで層にしてオーブンで焼いたイタリアン料理、というのが一般的な認識だろう。
しかし、一言にミートソースといっても赤ワインとトマトのバランスは。肉は牛肉か合挽か。挽き方は粗挽き細挽きか。ホワイトソースはどの程度つなぐのか。
いよいよここまで来ると出口の見えない迷宮入り。
そもそもイタリア料理という料理は存在しないと言われるくらいにイタリア料理とは各地方の郷土料理の集積体であり、例えばラザニアという名前の料理をイタリア料理店で食べても、構成は同じでもソースの味からして全くと言っていいほどに違う味わいの料理が出てくる始末で、こりゃ困ったことになるぞと。

これはラザニア、ひいては料理に限ったことではなく、数値化や固有名詞化できないものを扱う業界の場合、いったい全体どうやって落とし所を見つけているのだろうと強く感じたのが今回の面白い発見であった。
レストランのシェフとして料理を預かる立場であれば、自分が美味しいと思ったモノが絶対であり、シェフの味覚とセンスが全ての基本となって店全体が動いていく。
しかし、相手が大手小売のバイヤーや開発担当などの介在者と一緒に商品を作るとなると、ある程度先方の意向を反映させながら作らねばならない。
さあ、問題はここから。
もう少し滑らかにしてほしい、コクがほしい、風味が足りない…などなど形容詞のオンパレード。
野菜の炒め具合を深くするのか野菜自体を増やすのか、赤ワインの煮詰め方の問題なのか…

味覚というのは、どこまで行っても主観の域を出ません。要するに、誰も答えを持ってないわけです。
答え合わせのできない問題に取り組む面白さと苦しさの中で頼りになるのは、徹底的に顧客目線で考えること、そしてその最大公約数となる味を探す事。

多くの人が美味しいと感じる味を作る事。それは身体と味覚を持たないAIがどれだけ進化したとしてもこればかりはできないと思われる人間臭い作業です。

ビジネスの現場では実際にマーケットに出してみないとわからないことがほとんどであって、各社マーケティングや開発に時間と予算を割いてリスクをなるべく低くしますが、それでも結局は高いギャンブル性は排除できない。

私が料理に興味を持ったエピソードの一つに小学生の時に4歳上の兄貴が隣町でラザニアなる食べ物とカルボナーラなる得体の知れない食べ物を食って、それはそれは旨かったと自慢され、一体なんだそれは?どういう食い物なのだ、ようわからなんがとにかくヤツがあれだけ美味いというならばそういう事なんだろうという事で、母親に懇願して連れて行ってもらった記憶がある。初めて食べたラザニアとカルボナーラは当時全く旨いわけでもなく、どちらかというとキモい食べ物の部類に入る見た目のグロさと、なんちゃってパルメザンチーズのゲロのような匂いが強烈で良い印象は無かったが、初めて食べるそれっぽい外国の文化という点で料理人としての原点にはなっていると思っている。そんな忘れていた思い出の料理を30年経って自分がデザインしてコンビニで売られるというのは、なかなか面白いご縁だと思う。

料理に完璧なしと誰かが言ったが、結局それは料理人が答えのない答え合わせを続けることに他ならないのだろう。

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