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《連載》山毛欅になった人 #2

夢 始まる

 田辺さんから明るい声で「今出たよ~。」と報告が入った、到着は1時間後くらいになるだろう。風呂に入り子供を寝かせ付け準備万端で皆の到着を自宅で待てるのは贅沢な身だ。今回の釣行は4月中頃に彼から打診があり彼の所属する同好会の会長と私3人の予定であった。彼と源流部に入るのも初めての事だし会長のイワナ釣りも見てみたかったので即座に承諾した。ところが昨日思いもよらない電話が入った。「顧問が早出に行く予定が没ったから一緒に行くってさぁ。」図らずもこんなところで川上さんとご一緒することになるとは思いもよらなかった。更に当日あらためて彼から底抜けに明るい声で「大樹さんも来るからねぇ。」と電話があったのだ。大樹さんとは川上さん自らが主催する釣りクラブに所属する若手でモデルをやっている美男子で釣り雑誌にいつも記事が掲載されている渡辺大樹さんだ。何で自分がそんな人たちと糸を垂れる羽目になったのか。
 高速道を順調に飛ばし一般道に降りた頃には私の覚悟もようやく決まって来た。後部座席で寝ている川上さんは車中を震わすイビキにも威圧感がある。車止メまで行くつもりが途中で落石があり先に進めない。林道大分手前でクルマを止めての歩行延長を余儀無くされてしまった。通常の車止メより歩行にして約1時間手前の地点と知り会長は歩き出す前から泣き言を言い出す始末。 川上さんの一声で一斉に身支度に掛かる。「ナベ、ザック随分軽そうだなぁ、お前トップな、いいか!」「ハイ!行かせて貰います!!でもザック軽くないですから!」 川上さんと田辺の会話である。大樹さんは涼しい顔で身支度をしている。

身支度をするメンバー


「先に行っていいぞ。」と言われいよいよ開始である。ザックがズシリと重く感じられる。林道を塞ぐ高さ5m程の岩雪崩の山を乗り越え歩き出すと一気に汗が噴き出してくる。黙々と足を進めるが後から涼しい顔をして川上さんと大樹さんが続いている。「約30分だな。」林道歩行時間の通達が告げられる。「と言うことは1時間だね。」と小声で田辺が私に耳打ちする。「クルマは偉大なものだなぁ、俺りゃもうバテバテだよ~。」会長が早々に根を上げ始めている。

 途中朝食を兼ねた大休止を入れて正味1時間で山道の入り口に到着した。「覚えてるか?しっかりトップやれよ!」檄を飛ばされ田辺さんの顔がグッと引き締まる。ブナ林に細々と刻まれた踏み跡に足を踏み入れる。「1時間だな。」テン場までの歩行時間の通達が下る。「え~っ、ナベちゃんそれじゃ2時間?!」私の問いかけに笑って頷く田辺さんである。 踏み跡をしばらく歩くと足下に水量豊かな沢音が聞こえる。プッツリと切れた踏み跡の代わりに残置ロープが垂れ下がっている。トップに続いてセカンドの私も必死でロ-プにすがりつく。約20mの下降でやっと沢床に足が浸かる。ザックを下ろして大休止である。沢の水を口に含むと全身に涼気が染み込んでくる。

降り立った沢を下る


 会長の慎重過ぎる下降のお陰で充分な休息の時間を戴けた。「此処は俺達が放しているから源頭までイワナがいるぞ。」川上さんの言葉に上流を見つめる。ここからもアップダウンの多い踏み跡が斜面ギリギリに続く。万が一でも足が滑れば白波を立てて流れる本流まで間違いなく落ちてしまうので足取りも真剣そのものだ。「さあ!行くぞ!!」檄が飛ぶが歩き出せばすぐにバテてしまう。トップを行く田辺さんもさぞキツかろうが会長がバテたため3番手に下がった私の立場はもっとキツかった。息を切らせて無理矢理足を運ぶ私の後には川上さんが汗一つかかずに腕組みのまま進んでくる。「疲れた」など口に出せたものではなかった。

釣り?泳ぎ?

 大きなブナ林が広がる空間に辿り着いた。テン場である。重い荷物を下ろし一息入れ一夜の宿を設営する。タープを張りブルーシートを敷いただけの簡素な宿。屋根と床があるだけでテントの様な壁はない。そんな所でも今の疲れ切った身体にはホテルとも思える居心地良い場所だ。
 しばらく時間を潰したテン場に「さあ釣りに行くか!」と川上さんの声が響く。「待ってました!」とばかりに釣り支度に身を固めた我々に「俺は下流に入るからお前ら上流やれや。」とのお言葉である。「上流はうじゃうじゃだからな!」とイワナうじゃうじゃ宣言に胸躍らせる。「どっからでもいいから下に降りちまえよ!」と言い残し消えて行く。残された3人はイワナがうじゃうじゃを思い描くのだが本流への下降点が探し出せない有様だ。「前回はこの辺から降りたよなぁ???」頼りない事この上無い会長である。どこから覗いても本流まで30mはある絶壁だ。私も下降点を探す。「此処は行けるかも知れませんから見てきますね~。」他よりは下方に降りれそうな斜面を探りに行くと「当たり!!」ザイルを使わずに下降出来る地点を探し当てる事が出来た。しかし降り立った場所は前後を深いゴルジュに挟まれた奇跡的空間だった。思い思いに竿を出す3人だったがいきなり会長の竿がしなった。見事な尺上だ。 「居る居る!!」会長は上機嫌だ。ゴルジュの入り口に竿を出す田辺さんにも見事な9寸が飛び出す。 当たりも何も無いのが私である。 

上も下るも泳ぎしかない

 奇跡の空間に降りた私たちは行くも戻るも進退窮まった状態にいた。進む方法は泳ぎしかない。水流に悪戦苦闘の泳ぎを試みたがどうにもこうにも先に進めないゴルジュ帯。全く人を寄せ付けない切り立った岩肌が続く未踏の地である。だからこそのイワナうじゃうじゃ地帯なのではあろうが行けなければそれも夢のまた夢。3人は釣りを諦め濡れ雑巾になってテン場へと戻った。濡れた衣服を着替え人心地ついた頃に2人が帰って来た。「苦労して沢に降りて、さて釣りすっか!!と思ったらエサ無いんでやんの。落としちまったみたいでよぉ!大樹は大樹でテン場にエサ忘れて来るしよぉ。何しに来たんだかわかんねぇよなぁ・・・」と言いながらもさほど落胆した感じはない川上さんである。「さて!宴会すっか!!」漸く辺りも暗くなって焚き火宴会へと進む。

ブナの傘の下

酒を飲みながら「ザックが重くて・・」と言った私の言葉を耳ざとく聞いた川上さんは「ザックなんて何キロでも一緒だよ、腰で担ぐんだよ!腰で!!肩で担ぐから重いんだ!腰締めて腰で背負うんだよ!腰!!」と腰をヤケに強調していたのが印象的で登山を趣味にしている今でもこの言葉を大切にしている。「今日はウルイが一杯あったろ?それだけ難しい渓だって言うことだ。ウルイって言うのはなぁ薄い土に生える山菜だ。薄い土が被っているだけだからズルズル滑るって事だよ、覚えておけよ!」

タープの下で始まる宴会

 焚き火を囲み色々な話を聞きながら川上さんが握るイワナ寿司をいただく。焚き火の炎に目を細めながら「大樹の前で焚き火でゴミを燃やすなよ、ダイオキシン云々ってうるせぇからよ。」と笑いながら言う。「焚き火は良いよなぁ。」とオレンジ色に身を染めながら渓に遊ぶ男の本音をチラリと覗かせた。いつしか焚き火の明かりだけが浮かび上がるブナ林に地鳴りのようなイビキが木霊した。

大水泳大会

一夜明けた2日目は大樹さん先導で釣りというより大水泳大会だった。この渓では先に進むのも対岸に渡るのも手段は泳ぎだった。 水流に負けないように勢いをつける為に岩の上から流れに飛び込む。その勢いで一番流れのキツい流心を越える。私も田辺さんも必死の水泳である。私は最初の飛び込みの時点でエサ箱満タンのミミズを全て流されてしまったので釣りを諦めひたすら水泳に専念した。

岩に貼り付く大樹さん

 しきりに私に竿を出せと言う田辺さんだが内心釣欲が湧いて来ない。こんな辛い遡行は初めてだが私は私なりにこの泳ぎを充分楽しんでいる。渓の達人を目の当たりに見てこれ以上の贅沢は許されない。帰途は全て泳ぎで入渓点まで下る。下流に足を向け流れに逆らうことなく自然に流されている心地良さは格別だ。イワナの棲む流れに身体ごと包まれた幸福な瞬間である。
 テン場に着くともぬけの殻のタ-プとシ-トの空間にポツンとゴミだけが残されている。テン場を撤収しゴミ一つ残さぬ清掃をする。驚いた事に行きのザックより帰りのザックの方が数倍大きく膨らんでいる。飲みも飲んだり喰うも喰ったりだ。ザックがズシリと肩に食い込む。「ザックは腰で背負うのさ!!」と強気で言ったが結構重い。大水泳大会で全身の筋肉を稼働させた身体がだるい。アップダウンの続く踏み跡に終わりが無いのではないかと思われるほど長く遠く感じられた。 小休止をこまめに取りその度に「キツイ!!」「何で渓流釣りなんか趣味にしちゃったかなぁ。もっと楽な趣味にすりゃ良かったなぁ。」とつぶやく私に「きっとまた来たくなるさ。」と言った田辺さんだった。

《山毛欅のなった人#3 へつづく》

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