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《連載》山毛欅になった人 #4
付き添いだった筈なのに・・・
今回の釣行は2度の釣行でヘロヘロ状態を川上さんに付きっ切りで叱咤激励され面倒を見て頂いた事もあり人知れず気合が入っていた私である。渓泊まり初体験という高橋さんの新人研修を兼ねてお気楽マッタリ釣行とのふれ込みで自分は付き添い役との事で高野さんからお誘いを受けて参加した。しかし一旦川上さんに同行すれば一緒に研修させられてしまうレベルだった自分を忘れていた。
車止メには既に2台の車があった。取水堰堤まで林道を行く予定だったが先行者を考えて車止メ直下の斜面から入渓と決める。身支度を整えいつもながらの緊張する時間帯を過ごす。ハーネスを着けようとする高野さんを「恥ずかしいからやめろよ!」と川上さんが笑い飛ばす。確かに大蛇尾川あたりで3ツ道具は大袈裟ではあると私も用意していた3ツ道具を道具袋から取り出すことをしなかった。私が先頭で踏み跡を追うように進む。しばらくすると明確だった踏み跡が怪しくなって来た。完全に見失った時点で川上さんが先頭になり斜面を進む。高橋さんを気使いルートを選んでくれている様子なのだが我々も二の足を踏むような場所を平気で降りてしまう。足場の岩はかなり脆く気を抜くと落石を起こしてしまう。「お前ら石落とすなよ!」と言いながら先行する川上さんだが足元の小石が転がる度に「痛てっ!」と言う声が何度か聞こえ申し訳なく思う。
そして我々が気が付いた時にはスパルタ研修の真っ只中に居た。ぶら下がりながらようやく足が届く場所を降り、頼りない事この上ない細い草っ葉に命を預け、ズルズルの斜面をトラバースし、ひとかかえの落石に襲われながらもようやく大蛇尾川の流れを目視出来る場所まで降りて来た。あと50m程で沢床に立てるのである。
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我々が休憩している間に川上さんが下方の様子を見に行った。ところがなかなか帰って来ない。不安になった頃、何か叫ぶ声が聞こえたので様子を見に行くと「ザイル出せ!」と言っている。高野さんにザイルを用意して貰う間に状況を聞くと下の様子を見るためにザイル確保が必要だと言うことだった。用意されたザイルを肩がらみに操りながら再び斜面に消えて行く。
再度現れたが浮かない顔で「高橋さんはザイル使えるか?」と聞いてくる。後方に確認するが色よい返事が来ない。しかし彼は「行く!」と言う。単に今来たところを帰る事が出来そうもない為の前進案である。「懸垂で3m降りると3m横にテラスがあるんだけど横に移動するのに足がテラスに届かない。真下は河原まで何にも無いんだよ・・。」要はスパッと河原まで切り立っていると言う事た。ザイルはダブルで15mしか無く、途中で宙ぶらりんの状態。テラスには一人しか立つスペースが無く確保も出来ないと言う。高橋さんばかりではなく私も言葉が出ない。高野さんに至っては3ツ道具を置いて来た事への後悔が口に出る。早く河原に降り立ってこの恐怖から逃れたい気持ちと、進むにはそれなりの経験に裏打ちされた実力が必要なのだという現実がある。最終的には「止めよう!」と川上さんの一声でルート変更となった。
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我々が待機していた地点まで登り返し周囲を見渡したと思ったら上流方向にトラバースを始める。10m程先の岩場でザイルを操る姿が見える。右に左にルートを探している様だ。三人で眺めているとザックを下ろし踏み台にして岩肌を登りシュリンゲを使ってザックを引き上げようとしている。しかし途中の岩角に引っかかり上手く上がらず「早く来い!」とこちらを見ている。川上さんのもとまで行くと順次ザックを上げて空身で登れと言う。お助けロープを下ろしてくれているので何とかクリアする。
そこから更にトラバースして枯れ沢に辿り着く。ザックだけを残して川上さんの姿は無い。「上か、下か?」どちらに転んでも良い事は無さそうだが上に進路をとる。枯れ沢を林道まで詰める事になる。頭大の岩がゴロゴロしている斜面を登り始める。4人で落石に注意しながら登るが「カチッ!」と乾いた音がするたびに全身が緊張する。高度差150mほどを登り返して左の斜面に逃げる。木の根や草っ葉に命を預け”手の平よ、足の裏よ、吸盤になれ!”と祈りながら傾斜を50mほど攀じる。
辿り着いたところは支尾根の先端部三畳ほどの岩場。遠くに樹林が水平に切れた林道らしき空間が眺められる。幸いにも支尾根にはキノコ採りが残したらしき踏み後があり林道まで一気に登り藪を掻き分け倒れるように這い上がった。
夢に近づく
林道に戻り取水堰堤まで1時間30分ほど何事も無く歩く。河原に降り立ち雨をしのぐ事小一時間もすると上流から釣り人が降りて来た。「これで貸切だ!」と言う言葉と共に3人で竿を振りながら遡行開始。アタリ無し。次!アタリ無し。次!!アタリ無し。いい加減飽きたところでテン場に到着。小雨は続き雨の中でのテン場設営。これも研修だ。風上に寝床と宴会場、風下に焚き火場。風の流れる方向を考慮した焚き木の並べ方。快適なテン場一つにも知識と経験が必要だと教えられる。
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焚き火を起こし着替えを済ませれば宴会モード。高橋さんは何よりこれが楽しみだったと笑顔満面。それぞれの食材を肴に酒が美味い。何から何まで初めての経験に目を輝かせながら今日の行動を尋ねる高橋さんに対して川上さんはその時々の考えや思いを正直に答えている。何時に無く心地良くまた収穫の多い一夜だった。
夜明けて朝のひと時。昨日の疲れか川上さんも高橋さんもまだ寝ている。高野さんと2人で焚き火を前に話をしていると今朝一番乗りの釣り人がやって来た。「先行って良いですか?」と尋ねられたので「どうぞ」と答えるが栃木の渓はこれだから渓泊りの朝ものんびり迎えられない。これで今朝の釣りは諦めモードだ。そう言えば昨日ザイルを操って懸垂している最中に下の河原を悠々と歩く釣り人を見て川上さんも苦笑してたっけ。
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そんなこんなで釣果には期待しないまでも半日の釣り遡行を楽しむ。テン場に戻り遅い昼を食べて撤収する頃、漸く陽射しに包まれる。林道をひたすら歩く。昨日あれほど苦労し林道に登り返した地点から丁度5分でクルマに到着。一同顔を見合わせ爆笑の幕切れだった。
この時のテン場で焚き火を囲みながら「八久和行くか?」と川上さんから問われた。行くなら連れて行くという。これで9月の八久和川釣行が決まった。雑誌でしか知らないイワナ釣りの秘境へ自分が行ける事の喜びもさることながら川上さんとの出会いから始まった自分の周りの急速な展開に不思議を感じずにはいられなかった。
《山毛欅になった人 #5につづく》
参考資料 「渓道楽の釣り」新人歓迎釣行