![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172538081/rectangle_large_type_2_6e8501376107458e7c63851192089190.png?width=1200)
《連載》山毛欅になった人 #3
あの川の上流へ
不眠で降り立った車止メは既に夜が明けていた。身を固めた背中にズッシリとザックの重量感を感じる。 一歩一歩踏み出す足元でガサガサと枯葉の絨毯が音を立てている。しばらく登り下りを続けるうちに7人の長い縦列が自分を境に間隔を広げて来る。先程までの爽快な気持ちは消し飛んで心臓の鼓動だけが強調されて来る。「何で来ちゃったかなぁ・・・」後悔が今日もまた心に浮かぶ。樹々に遮られ周囲の山容も展望が利かない。ブナの林に付けられた一本の踏み跡を黙々と歩く。仲間達の励ましで何とか足を前に送り出す。風にそよぐブナの葉音と自分の吐息が奇妙な和音を創り別世界のモノの様に聞こえてくる。 踏み跡から外れて上に下にと旬の山菜を採りながら嬉々と歩む向井さんもまた別の星の生き物に見える。稜線に出てピークで一息入れ涼風に精気を甦らせる。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172720042/picture_pc_f59b2f87adf9201f2c7c2a81860e3b39.png?width=1200)
その先多少のアップダウンを交えたルートで歩調が安定して来た、と思う間も無く急斜面の下降地点に到着。下降で掛かるテンションが容赦なく両膝を攻め立てて来る。下方から聞こえる沢音だけが今の支えである。こうして両足を引きずる様に沢床に降り立ち火照った足を渓水に浸す時、充分な達成感に満たされ心身共に急速な回復に向かって行く。
穏やかな時間
一息入れて一夜のテン場を設営を済ますと上流へ下流へとそれぞれ別れて散って行く。 私はひとり本流を釣り上がりテン場予定の沢の出合いまで遡って行く。渕尻からザラ瀬で掛かるイワナに苦労し大場所で全くアタリが無く戸惑う。しばらく源流の釣りを堪能しテン場の沢の出合いに到着。みんなが来るにはもうしばらく掛かりそう。凍らせて持って来たビールを喉に流し込む。竿を出しながらみんなを待っていると下流で川上さんの指笛が聞こえる。合流して釣果を聞こうとした私の前に尺イワナを掲げて嬉しそうに微笑んでいる山崎さんの顔があった。どうやら川上さんの手ほどきで初源流にして初釣果が尺イワナとなったらしい。
出合いから程近い右岸高台のテン場はブナ林に囲まれ広々としている。昼過ぎと言う早い時間にテン場に到着。ということで夜に向けて焚き木を集める。ひとしきり周囲の枯れ木を集め回った一行は車座になって宴会となるのだった。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172721661/picture_pc_68a4a39dfd7aa8287af2c0d6282e8c06.png?width=1200)
過去の釣行話、キノコや山菜の話、果ては失敗談まで飛び出し欠席裁判的話題に一同大いに盛り上がる。話しながら飲みながら誰かがチョコチョコっと手を動かして料理が一品出てくる。今回の私の宴会メニューは渓水で打った”雪代蕎麦”。これをみんなに食べて貰いたい一心で担ぎ込んだ蕎麦打ち道具。その他”芋がらの甘醤油煮””エビチリ””きのこ炒め”。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172721877/picture_pc_893d5e70925e969fd6415a97df2a7a26.png?width=1200)
山崎さんの尺イワナは川上さんが包丁を入れて刺身にされ一同に振舞われた。ビール・焼酎・ウイスキーに日本酒、これが楽しみの渓泊りの一夜だった。
朝から宴会
翌日も良く晴れた清々しい朝を迎えた。夜明けを迎えようとする頃からバチバチ薪の爆ぜる音がしている。 八木さんが焚き火を熾し朝から焼酎を飲んでいる。田辺さんも起き出し私もそそくさと寝袋から這い出して参戦。「朝の氷結は最高っす!」八木さんの楽しそうな顔につられて「ビール!焼酎!ウイスキー!」朝食なのかツマミなのか判らぬ品々を繰り出していると川上さんも起き出した。 昨夜の残りのアルコールを探し回る者、飲み飽きて朝食を食べる者、各自思い思いの自由な時間。こうして朝から4時間も宴会をしてしまった。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172725520/picture_pc_9e89d590e31303e4b3224919c4d537ac.png?width=1200)
あの大水泳大会をした下流部とは打って変わって穏やかな流れで楽しんだ釣行もテン場を後にする時刻。帰りだからと言ってつらい山道が楽になる訳も無く、苦労して降りた場所はちゃんと苦労して登る様に出来ている。疲労で遅々として進まぬ歩調に情けなく思いながら亀の様に両足を動かしている。稜線に上がりピークで涼風に吹かれ周囲の山々を眺める。如何にも風景を楽しんでいる体だが9割が休憩目的だ。それでも指差しながら沢や山の説明をしてくれる川上さんの言葉は覚えている。最初から最後まで励ましてくれた仲間達、そして豊かなブナの木々に大感謝の源流行だった。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172725573/picture_pc_c1feede5a93034ad853d5e18160eab4c.png?width=1200)
川上さんとの2回の釣行は私にとって大きな収穫だった。すでに掲示板で知り合っていた田辺さんたちに加えて新たに川上さん直属のメンバーとも釣行を共に出来た事は自分を知る上で大いに役に立った。彼らの質の高さを実感し自然を楽しむ知識や力量を感じ取れた。アプローチの途中で山菜やキノコを採りに脇道に逸れ、釣った魚は勿論山菜などの収穫物もテン場で見事に料理してみんなに提供する。それは渓を楽しむ姿そのものだった。自分自身も楽しみながらみんなも喜ばすそんな姿は魅力的だった。自分もああなりたいと思った。
《山毛欅になった人 #4 につづく》