「旧約聖書:戦いの書物」
今日の1冊「旧約聖書:戦いの書物」
とても興味深く読ませていただいた。ここでいう戦いは、戦争というよりは、聖書の登場人物の人間としての葛藤を描いている。キリスト教内にいると、どうしても聖書の登場人物を「聖人=優れた特別な人」というようなイメージが前提で読むようになってしまいがちだと思う。
僕は、この筆者のような熱心な信者というわけではない、歴史学者・聖書学者が書いた聖書本の方が、人物が生き生きとして物語としても頭にすんなりと入ってくる。
繰り返しだが、僕はキリスト教の家庭に育ち、当たり前にキリスト教徒になった。クリスチャンの2世・3世にとっては、キリスト教の価値観が「普通」の考え方になる。
僕も当たり前にクリスチャンになったが、何かいつも居心地の悪さを感じていた。周り(クリスチャンの社会)に馴染めない。それはやはり聖書への向き合い方、それはつまり神様への向き合い方が、どこか周りと同じではないのだ。
僕は聖書を今でも読むし、他の書物とは違う力がある特別な1冊だと思っている。ただし聖書に書いていること全てを理解しているわけではなく、聖書の中には「なんでこんなことするんだろう」と賛同出来ない箇所、謎がたくさんある。という立場である。
今では、このようなことは言いやすい雰囲気かもしれないが、子供のころは、これを口に出すと怒られる、周りから不信仰と言われそうで怖かった。
この1年は、特に周りの環境が「宗教色」の強い場にいたので、よく考えさせられ自分を見つめなおす機会になった。
僕は神様の存在は信じており、キリスト教徒ではある。ただキリスト教は必要である。ただキリスト教・その他の宗教も、宗教の名のもと、また神様の名を使って、世の中を不幸に陥れるケースが多々あることを自覚している。
まじめなキリスト教や仏教や宗教的な考えでは、結婚式は教会で、お葬式はお寺でという日本人の宗教観は否定的になると思うが、僕は日本が平和なのは、この適当な宗教観が良く社会に反応しているから平和であることの大きな要因だと思う。
「熱心」はまだいいかもしれないが、それが行き過ぎると狂信になる。以外に多くの人が熱心だと思っている間に、教義や聖書を都合よく解釈しはじめて、狂信になっていることがあると思う。少なくとも、この1年はそのような環境に僕はいた。
熱く聖書を語る人はたくさんいるが、もっと「冷めた視点で聖書を読む」会をいつか自分で立ち上げたいと思っている。