コスモブルーの稲穂たち
秋の昼下がり。普段であればアパートの一室で本を開き、窓からほんの少しだけ吹き込んでくる涼風を肌で感じながら、食後休憩と称して思索にふける時間帯である。
しかし、今日の思索の対象は眼前180°に広がる海だった。
全国有数の海なし県で生まれ育った所為か、海に対しては幾分人より特別な感情を抱いていると自覚している。
――――何処かの温泉地で1日を過ごしてみようか。
そう思ったのが昨日。てっきり箱根湯本にでも行くのかと考えていたが、「海の見える温泉」なる宣伝文句を一目見た今日の自分は、何かに吸い寄せられるかの如く海辺を目指していた。
――――山と木々に囲まれた自然豊かなところは何時でも行ける。
そう消極的な理由をつけて箱根湯本の選択肢を外したような覚えがあるが、降り立った駅から歩く途中で覚えた高揚感といざ住宅街を抜けて海がその姿を現した際の晴れ晴れとした気分を鑑みるに、海への憧憬という積極的理由があったことは否みようがない。
入館の受付を済ませると、すぐそこに食事処があった。腕時計には12時52分を指すデジタル数字。時間も時間である。昼食を済ませるべきか、先に入浴すべきか…………。
―――――まだ空腹ではないよな……?
やはり、というべきか。多少の逡巡ののち、勝ったのは海への憧憬だった。
室内の浴槽を一瞥すらせず、露天に向かい、浸かり、眼前の景色を眺める。
水面が不規則に揺れ動き、その揺れに応じて頭を出したり引っ込めたりするテトラポッドたちが波を砕き、大型小型を問わず数艘の船がまばらにぷかぷかと浮かぶ。地平線を目指し、ゆっくり遠ざかりつつある大型タンカー。自分の知っている海であった。
――――いや、何処か違和感を覚える。
違和感の正体には直ぐに気が付いた。車の通るアスファルトの灰色と、水面のコスモブルーの仲立ちをしている一色が足りないからだ。
――――白が、ない。
自分の朧げな記憶を辿る限り、コスモブルーと灰色の間には白、すなわち砂浜があって然るべきだった。19年も生きていながら、未だにステレオタイプな海の像を持ち合わせていたことに少々驚いた。砂浜という緩衝地帯の有無で、これほどに印象が変わるのか。幾分新鮮な気分だ。
折角温泉に浸かって穏やかな気分になったはずなのに、思考は忙しない。違和感の正体を暴いた次の瞬間にまた脳裏を過るものがあった。
――――田園風景。
郷愁であった。どうやら参ったことに視界の180°以上が開けると、自分は故郷のあぜ道を連想してしまうらしい。
不規則に揺れる水面は稲穂。規則正しく、ゆっくりと移動する船たちはトラクター。海の向こうに見える住宅街と、田んぼの向こうに栄える住宅街が重なる。
――――流石にそれは無理がなかろうか…………。
様々思うことはあったが、一度連想したものはそう簡単には取り消せない。都会の住宅街という窮屈さからの解放のシンボルこそ、自分にとっては田園風景なのだろう。
――――まぁ、目の前の海と田園風景で似通った所がないでもないか。
田も海も、外からではその最上面しか見えない。収穫直前期、風に揺れる稲穂たちの根元部分には、恐らくたくさんの鈴虫たちが必死に生きている。眼前の水中も同じことなのだ。今船が通過した部分。今テトラポッドに砕かれた波の近く。すぐ近くの堤防。どれだけ多くの魚たちがいるのだろう。成程。海面から稲穂を連想するのも悪くないようだ。
ところで田園風景に於いても海面に於いても、憎たらしい奴というのは共通して存在する。そいつらは決まって空を颯爽と飛んでいる。鳥だ。
これほどまでに広い場所なのに、人間は殆ど自由に動けない。田には碁盤の目状に道が引かれる。海であれ、予め決められた航路という見えない道が引かれている。自分たちはそれを無視することができない。
田の傍の道を垂直に曲がるとき、どれほど稲穂の中を斜めに進んで距離の短縮を図りたかったか。道を持たぬ、自由気ままな空の旅人には分かるまい。
――――しかし、コスモブルーというのはこうも飽きずに見続けられる色なのか。
背後の壁にぶら下がる時計の長針もかなり動いている。浴槽に浸かり始めた時にはまだ鮮明に見えた大きなタンカーは、もうその輪郭すら捉えるのが難しい。宇宙を思わせるような深く暗い青色は、神秘的で気分が落ち着く。プラネタリウムと天体観測が好きだという友人の気持ちが少しわかったような気がする。
海の青は空の青。原理は違うが夢くらい見ても良いだろう。
昼食を終えて、もう一度浸かり、暫く時間を潰せば沈む日の橙色に水面が染まり、本当に収穫前の稲穂のように揺れ動くかもしれない。日が完全に落ちてしまえば、海と空の青が一致し、水平線すらも認識できなくなる時が来るかもしれない。その様子を眺めることができるかもしれない。
しかし、生憎ながら今日は曇天。どうやら上手くはいかなそうである。
諦めて適当な時間で上がろうかと考えるも、何処か寂寥感を覚える。
――――今ここを離れたら、次に来るのは何時になるのか。
海なし県民にとっての海とはそんなものではないか。男女別学に在学中の学生にとっての異性と大変似た感覚だと思う。
――――今さようならと手を振ったら、次何時会えるか分からない。 ――――会うだけで少しばかり手間がかかるのだから。
そういった儚いものなのだと感じる。
上がる前にもっと近くで見るために浴槽の縁に寄り、リラックスしようと縁に両手を、その上に顔を載せる。しかしながら憎らしいことに、外部からの視線を遮断するための柵が視界を遮る。露天には必ずあるものだが、海と重なるのは腹立たしい。景色が見えるようにできる限り背の低い柵を使っているようだが、力を抜くごとに自分の顔の位置が下がるので視界に掛かってしまう。
完全に力を抜くと、柵の最上部と水平線が重なってしまった。
――――ああ、やはり海を眺めるには労力が要るらしい。
こう思ってしまうのは、海なし県民だからだろうか?
――――――――――――――――――――――――――――――――
海なし県民が海っていいよねすごいねってひたすら叫びまくるだけのnoteでした。お読みいただきありがとうございます。
↑今日行ってきたところはここです!1日のんびり過ごそうかなって思ったらかなり良いと思いますです。今日一日の出費が4000円くらい行っててあーあって感じではあるんですけど……。